著者からのメッセージ

 『ウルトラ・ダラー』を執筆するきっかけとなったのは、あの「ドイツの小さな町」ボンでの出来事でした。九年ほど前のことです。当時、わたくしはNHKのボン支局長をしていたのですが、ある日、自宅に分厚い郵便物が日本から送られてきました。幾重にも梱包された封筒には「厳秘」という赤い印が押されていました。後に『宿命―「よど」号亡命者たちの秘密工作―』として新潮社から出版された原稿のゲラでした。著者の高沢皓司さんは、ある種のインサイダーであったのですが、ハイジャック犯が関わった拉致事件の全貌を初めて白日のもとに明らかにし、公安当局を震撼させたのでした。それだけに出版社の側も出版ぎりぎりまで機密を守り抜こうと懸命でした。その一方で、新刊を紹介する月刊誌『波』用に書評原稿はだれかに依頼しなければならず、結局、私が引き受けることになりました。それはのちに『公安が震えた「よど号」の深層工作』として掲載されました。

   

 私は一読して、そこに書かれている事実に深い衝撃を受けました。北朝鮮の工作当局は、「よど」号のハイジャック犯たちに日本女性との極秘結婚をすすめ、ついで夫妻をヨーロッパに派遣して日本人旅行者の拉致を企てたのでした。ザグレブ、コペンハーゲン、ウィーンそしてマドリッドが舞台となりました。日本の公安当局もまったくつかんでいなかった驚愕の事件でした。

 『宿命』の最初の読者だった私は、ジャーナリストとしての自らの至らなさに深く恥じ入らなければなりませんでした。事件の存在を予感させる材料は私の周囲に数多くあったからです。横須賀の情報拠点だったスナック「夢見波」、米海軍情報部がつかんでいた不審船情報、コペンハーゲンから消えた日本人旅行者。いくつかの断片を結びつけて全体像を構想する思考の跳躍力があれば、事件の深い闇に遡及することが出来たものを―。いつの日か、リターン・マッチをと自らに言い聞かせたのでした。

 東京の下町から突如姿を消した若い印刷工―。名門製紙会社から運び出された紙幣の原料―。消えた紙幣印刷用の凹版印刷機械―。失踪したハイテク印刷会社の経営者―。ジグソー・パズルのピースをひとつひとつ嵌めこんでみると、奇怪な全体像が姿を現しました。

 そこには、凍土の独裁国家の黒々とした意匠が影を落としていました。にもかかわらず、日本の公安当局は積極的に動こうとはしませんでした。ひとたび国境を越えてしまった事件には容易に捜査の手を伸ばすことができずにいたのです。海外の情報機関と緊密に連携をとりながら、国民の生命・安全にかかわるインテリジェンスに迫っていく情報センスを著しく欠いていたのです。そして、なにより事件の点景から全体像を紡ぎだす構想力をすっかり萎えさせていました。事件の深い闇に挑むには日常的な思考の引力から脱する跳躍力を必要とするのですが、そんな筋力は安逸に流れた戦後社会からはすっかり姿をひそめていました。

 これに代わって、この事件のフロントに姿を現したのは、アメリカ財務省の地下に本拠を置く極小の捜査機関「シークレット・サービス」でした。そしてその同盟者は「ブリティッシュ・エキセントリック」と断じられていたBBCの東京特派員だったのです。

 

 


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