「いるかホテル」と「FMいるか」。村上春樹の名作『羊をめぐる冒険』にこのホテルは登場する。村上春樹が滞在していた宿は札幌にあったのだが、「いるかホテル」は実在しない。だが「FMいるか」は函館山の麓にひっそりと建っている。

 初秋の海峡を遥かに望む元町の喫茶「カフェ・ペルラ」。陽光に溢れる窓際で原稿に手を入れていた。吹き抜けの天井からゴンチチのギター曲が降り注いでくる。ふと見上げるとガラス張りの三階がスタジオだった。函館山のアンテナが80.7メガヘルツの電波を16万世帯に届けている。番組は「暮らしつづれおり」というタイトルだった。

 僕は小さなラジオ局が好きだ。黒髪をなびかせながら坂道をくだるカーデガン姿の美少女。北国のコミュニティFMは、そんな彼女たちにも似て清楚だが凛としている。

 ハンガリー動乱のさなか、クレムリンに抗って蜂の巣のように銃撃されたブタペストのラジオ局。アイルランドのドネガル半島からIRAに密かな情報を発していたラジオ局。それぞれの電波には人生にも似た年輪が刻みつけられている。

 ウェストバージニアの山道にぽつんと建つログハウス。コーヒーショップと思って飛び込んだのだが、FM局だった。局員はたった一人。パーソナリティにして放送技師の老人だけだった。「ボブ・ディラン」専用局だったのである。マグカップを傾けながら話し込んでいるうち、興が乗ったのだろう。老人は途中から生放送に切り替え、スコットランドからやってきた家族の肖像を語りはじめた。炭鉱夫だった祖父の一代記はジャック・ロンドンの物語のように荒削りだが勇壮だった。小屋を出ると季節はずれの春の淡雪になっていた。

 ガラス越しのスタジオを時折見上げながら、わがいとしのラジオ局たちに思いを馳せていると、友人のNさんが急ぎ足でやってきた。

  「いるか、素敵な名前でしょう。昔は津軽海峡でも姿を見たものです」

  函館山でケーブルカー会社を営みながら、日本初のコミュニティ局を立ちあげた人だ。彼に案内されてスタジオを覗いたのだが、パーソナリティの山形牧子さんに誘われてにわかゲストとなった。

 「僕はテレビよりラジオのほうがずっと好きなんです。どこかお洒落で温もりのあるメディアでしょう。だから、わがスパイ小説『ウルトラ・ダラー』の主人公もBBCのラジオ特派員なのです」

 ロンドン市民は目覚めるとまずラジオのスイッチを入れる。ビエンチャンのジョナサンが、東京のスティーブンが、刻々と世界の鼓動を伝えてくる。家族にも等しい彼らの声の変化から異変を推し量るほどだという。ラジオが発する波は、送り手とリスナーを心の絆で結んでいる。

Bobo's 2007年12月号掲載 「優雅な時間」


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