イタリア北部の古い港町ジェノヴァで始まったG8サミットは幕開けから波乱含みだった。海洋都市国家として栄えたジェノヴァの総督公邸だったドゥカーレ宮殿につどった先進八ヶ国の首脳たちも心なしか緊張しているように見えた。「反グローバリズム」のプラカードを掲げた十二万のデモ隊が、見事なフレスコ画で彩られた宮殿を幾重にも遠巻きに取り囲んでいたからだ。 

 「白装束の部隊から一瞬も目を離すな。彼らが動いた地点に最大の動員態勢をとれ」

 無線トーキーを手に、警備隊長が重武装の警官隊一万五千に檄を飛ばしている。「白装束隊」と呼ばれる一団は突破地点をあらかじめ明らかにし、肉弾攻撃を仕かける構えを見せていた。だが、アナーキストの一団がこの「白装束隊」の出鼻を挫くように最前線に躍り出していった。そして沿道の車に次々に火を放ち、商店街を襲った。リグーリア海が陸地に深く切り込んで造ったこの美しい港町はたちまち火炎に包まれてしまった。警備陣も催涙ガス弾と放水車で果敢に応戦したのだが、デモ隊を容易には鎮圧できなかった。このさなかに悲劇は起きた。ローマからやってきた二十三歳の青年カルロ・ジュリアーニ君が警官の放った銃弾で射殺されてしまったのである。超大国アメリカの世界支配に抗ったカルロ君の死は、わずか一ヶ月半後にアメリカ本土を見舞うことになる同時多発テロ事件のかすかな予兆となった。だがこのとき、未曾有の惨事がアメリカに襲いかかろうとしていることをまだ誰も知らなかった。

 ジェノヴァ・サミットの警備陣は、早くからテロ対策を周到に練りあげていた。サミットに充てる地域をごく狭い範囲に限定し、幾重にも封鎖線を張り巡らせる―。これがイタリアのベルルスコーニ政権の秘策だった。だが、関係者の宿舎をいかに確保するかが難題だった。サミット・エリアを小さくするほど警備はしやすくなる。だが、おびただしい数の各国政府関係者や報道陣をすっぽりと収容するホテルなどどこにもありはしない。このディレンマをみごとに解決してしまったのが、航海者コロンブスを育てたジェノヴァの知恵者たちだった。

 豪華客船をつれてきてサミット会場に近いアンティコ・ポルトの桟橋に係留すればいい―。これなら海に浮かぶ一級のホテルになる。豪華クルーズに就航している客船が次々にチャーターされた。かくしてヨーロピアン・ビジョン号をはじめ瀟洒な客船が岸壁にずらりと繋留された。

 アメリカのブッシュ大統領に同行してきたわれわれホワイトハウスの記者団も豪華客船に旅装を解いた。私に割りあてられたキャビンは、上甲板から三層ほど下層の小ぶりな部屋だった。おそらく二等船室といったところなのだろう。デッキから望むジェノヴァ港の入り口にはイタリア海軍の警備艇が遊弋し、海からのテロ攻撃に備えていた。

 外の世界から隔離されたサミットの三日間はこうして過ぎていった。だが、時差の関係で会議が終わっても、日本の夜用のニュース時間帯にジェノヴァ発で中継リポートをしなければならなかった。このため、たった一人でこの豪華客船に居残ることになった。ホワイトハウスの同僚記者団は未明に大統領に同行して船を早々に引きあげていった。

 前の晩、フロントでこの豪華客船の出港時間を確かめておいた。

 「当船は翌夕刻には、新しいお客様を桟橋でお乗せして、ミコノス島をはじめエーゲ海周遊のクルーズに出航いたします。それまではどうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」

 さすがは豪華客船、純白の制服に身を包んだ乗組員は、優雅な所作でこう説明してくれた。テレビ中継の準備が始まる明朝九時半まではゆっくりと眠ることができる。船内のカジノも閉鎖され、することもない。そのままベッドに倒れこみ深い眠りに落ちた。

 どれほどの時間が経ったのだろう。ドロのような眠りの底からエンジン音のようなものがかすかに響いてくる。いや、夢なのだろうか。なーに、気にすることはない―、こう無意識の自分が言い聞かせている。しばしまどろんでいると、エンジン音が次第に大きくなっているような気がする。いや、心配することはない―、出港は夕方だと確認してある。出港時間を確かめたのは、イタリア人ではない。謹厳なイギリス人だった。彼らがでまかせなど言うわけがない―、なお浅い眠りのなかでそう自らに言い聞かせた。

 そのまどろみを打ち破るように船のエンジン音がはっきりと響いてくるではないか。ああ、出港に備えてエンジンの調整作業が始まったにすぎない。落ち着け、大丈夫だ―。懸命にいいきかせるのだが、ものぐさな僕もさすがに不安に駆られてきた。エンジン音だけではない。船の振動もベッドに伝わってきた。なにか異変が起きているのかもしれない。なにしろ異例ずくめのサミットだったのだから。

 ベッドから抜け出して、おそるおそる丸窓から外の様子を覗き込んでみた。顔から血の気がさっと引いていくのがわかる。なんとわが豪華客船はアンティコ・ポルトの岸壁を離れようとしている。僕を乗せてエーゲ海のクルーズに出航しつつある。

 とっさに海に飛び込んで岸壁を目指すか。それともヘリコプターをチャーターしてロープで船から吊り上げてもらうか。残された選択はこの二つしかないと覚悟を決めた。

 とにかくフロントに駆けつけて事情を確かめなければ。勝手に出航してしまった責任をとがめてやる。大あわてでチノパンツをはいて部屋を飛び出し、階段を三段ずつ駆けあがった。

 「船が岸壁を離れている。これはいったいどうしたことか」

 「確かに、お客様のおっしゃるとおり船は離岸しております」

 あの謹厳居士が表情ひとつ動かさずに答えるではないか。かすかに微笑すら浮かべて。

 「お客様、どうかご安心のほどを。当船はアンティコ・ポルトを離れて、通常の桟橋があるジェノヴァ港の対岸に移動中でございます」

 わが頬に血の気が戻ってくるにはしばしの時間が必要だった。この出来事からひとつの教訓を得た。

 常在戦場はもののふの心構えという。取材の前線にあっては就寝中もチノパンツを身につけているべし。できれば下には水泳パンツもはいていることが望ましい。

 
月刊「銀座百点」平成18年8月号

 


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