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薔薇園には育てる者の意匠が黒々と投影される―。ふとそんなことを思ったのは、ライン川をはさんで冷戦都市ボンの対岸にあるレーンドルフの高台だった。そこは、ブリヤート・モンゴル人のような容貌を持つあの老人が愛した庭園だった。彼の寓居をとり囲むように咲き乱れる深紅の薔薇の群れ。アデナウアーにとって薔薇作りは、ナチの弾圧から身をかわす一の韜晦だった。が、この老政客は敗戦によって宰相となっても庭作りをやめようとしなかった。ともすれば盟主アメリカにも抗いたくなる反骨の情熱を、薔薇作りで冷まそうとしたのだろう。深紅の花弁は、彼の口から覗く赤い舌でもあり、血しぶきでもあった。
深紅の薔薇にはいまひとつ忘れがたい想い出がある。英国外交官の旧友宅にディナーに招かれた時のことだった。テーブルの中央には見事な花束が飾られていた。隣家の夫妻が携えてきたのである。八十に近い夫人は花柄のサマードレスを愛らしく着こなし、瑠璃色の眼の奥には知性の輝きが見てとれた。翌日、隣家のアフタヌーン・ティーに誘われ、アッサム産の香り高い紅茶と手製のクッキーを振る舞われた。裏庭には短い夏の陽射しを浴びて薔薇が咲き誇っていた。それぞれの株には小さな名札が付けられていた「セミョーン」「グリーシャ」「アンドレイ」「スベェトラーナ―。すべてロシア語の綴りだった。 「妻が永年いつくしんできた者たちの墓碑銘なのです」主人がぽつりとひとりごちた。夫人は英国の情報機関に勤務していたひとだったのである。冷戦のさなか、東のスパイは西に潜入して情報活動に携わり、やがて音もなく姿を消した。そして西側に再び現れるときには別の名前と職業をまっていた。砕け散った破片を気の遠くなるような時間をかけて寄せ集め、本当の貌を割り出す。これが彼女の任務だった。難敵を追跡しているうち、いつしか寒い国から来た男たちが身近な存在になっていったのだろう。だが、引退後も機密の封印は解かれなかった。裏庭の名札にかすかな痕跡をとどめているだけだ。彼女にしか判らない符丁の形で―。薔薇の名札にはあの冷たい戦争を闘った情報戦士の烈しい意思が滲んでいる。極東の経済大国ニッポンも冷戦の埒外に身を置いていたわけではない。だが、その国に暮らした人々も防諜当局も仮構のなかに安住して夢見心地だった。『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』は、こんな現実をせせら笑うように、深層工作が繰り広げられていた事実をひとつまたひとつと暴いている。 一九七〇年三月、日本赤軍の兵士九人が日航機「よど号」をハイジャックし、北朝鮮に亡命した。この事件から二十年後、ひとりの日本人ジャーナリストがピョンヤンに入って「よど号」の田宮高磨らと接触を始めるところからこのドラマは始まる。 著者は「よど号」と日本国内の支援組織を結ぶかぼそい線上に立っていたのだろう。それ故に田宮ら亡命者の内面に深く潜入し、亡命という名の河を遡上していった。その果てに著者が見てしまったのは凍りつくような陰惨な風景だった。彼の地の政治指導員は自ら「領導芸術」と呼ぶ方法で世界同時革命を呼号する「よど号」グループを改宗させた。続いて秘密結婚を言葉巧みに促し、花嫁は日本から拉致したり、おびき寄せたりして調達したのである。こうして海外工作の陣容が整うと、政治指導員はスパイ・マスターに変身し、「よど号」グループは、ザグレブ、コペンハーゲン、ウィーン、そしてマドリッドに送り込まれていった。そこで繰り広げられた非合法活動の詳細はここでは触れない。 彼らは欧州に出没しただけではない。大胆にも祖国日本への潜入も敢行したのである。「よど号」の妻のひとりは、基地の街横須賀にスナック『夢見波』を店開きして地下工作の拠点にした。在日米海軍基地と自衛艦隊司令部が標的だった。彼らにまつわる断片的な情報は日本の防諜当局にも通報されていた。だが、自らの貧相な想像力を超える出来事は、当局にとって存在しないことの同義語だった。歪んだパシフィズムは権力をも蝕んでいた。 革命は、屡々、革命家の手中に扱われることによって革命的な性格を失う。これが、私たちを思いがけず衝撃して愕然とせしめる革命の逆説である―と喝破したのは埴谷雄高だった。「よど号」の九人のうちひとりが異端の疑いをかけられて抹殺されていく道程は「革命の逆説」の救いようのない証左であった。 かの凍土からの脱出行の果てに著者は「わたしはいま、自らはそれらの策謀に加担させられたくないと考えるだけである」と吐き捨てるように呟くのだが、そこには結果として策謀に巻き込まれてしまった者の自責の念が表出している。かつてその政治体制と思想に抱いていた著者の共感がしだいに色褪せ、やがて絶望の淵に落ちていくさまが行間に滲んでいる。これは訣別の書であり転向の書なのである。 本書の末尾には、牡丹峰(モランボン)に咲いた花々を見上げながら田宮が著者に呟いた美しい言葉が刻まれている。「花が散るなぁ。花が散っていく……」だがこの望郷の歌のなかにも組織の黒々とした意匠が影を落としていた。著者が最後に耳にしたのは虚無の地底から響いてくる「闇からの哄笑」だった。 |
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