手嶋龍一

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六本木はスパイ天国である!?

外交ジャーナリスト 手嶋龍一が警告

インテリジェンス武装の必要性

限りなく事実に近いフィクション小説『ウルトラ・ダラー』で出版会の話題を集めた彼が、まるで、小説のように面白いトラベル・ストーリーを上梓した。スパイの見分け方まで説明されている、らしいのだがーー。

東京六本木けやき坂──。

六本木ヒルズを見上げるビルの谷間に、手嶋龍一はいた。時の流れは速い。つい1年前まで彼の顔を見て思い出すのは、NYのあの悪夢。9・11の同時多発テロ報道だった。NHKワシントン支局長として、未曾有の惨事に揺れるアメリカの素顔を報道し続けた彼の姿が網膜から消えることはないけれど、組織の一員の肩書きをするりと脱ぎ捨てた現在の彼は、どこから見ても、世界を相手に活躍する一匹狼のジャーナリストだった。

      

ベストセラーになった処女小説『ウルトラ・ダラー』で、彼は日本という国家のアキレス腱を浮き彫りにした。それはインテリジェンス・サービス、すなわち情報機関の不在だ。

日本を取り巻く東アジア情勢は混沌とし、次に打つ手が致命傷になりかねないほど緊迫している。なのに、日本は独自の判断を下すための眼や耳を持っていない。潜望鏡のない潜水艦のようなこの国は、今や世界の情報機関員の暗躍する舞台となっているというのに! それは組織から自由になった彼が、日本社会に向けて発信した、最初の強烈なメッセージだった。

「日本には、情報機関が存在しない。そんな国は、少なくとも先進国で日本だけです。僕は、TOKYOは世界各地からやってくる諜報機関員にとって、未開の大地であり、約束の地だと言い続けている。経済大国は潜在的な情報大国でもある。それゆえに、東京には膨大な一級の情報が集まっている。当然のことながら……」

蜜の流れる場所に蜂が群れるように、この街は世界の情報のプロの天国になっている。

「たとえば、アメリカ大使館には、CIAの東京支局長がいます。もちろん大使館に電話をかけて、CIA東京支局長お願いしますなんて言っても、出てくれませんよ(笑)。ビジネスマンとして東京に住むCIA職員もいる。モサドの要員もカトリックの神父も」

けれど、彼らは日本で、いったいどんな情報を集めているというのだろう。

「今現在のホットな話題で言うなら、たとえば日本は核武装するに至るのか。だって日本は決断さえすれば、数カ月かそこらで核武装できるわけだから。彼らの立場からすれば、すでに極秘裏に核武装しているかもしれないという疑いだって成り立ちます。今現在はあり得ないことでも、彼らの網にどんなに日本像が結ばれているかが問題なのです」

毎朝8時半、ホワイトハウスの大統領の元には、インテリジェンス・レポートなる報告書が届く。世界の情報機関から上げられるこのリアルタイムのインテリジェンスには、ゴシップに近いものまで含まれると言う。

「大統領も人間だから、生真面目な報告だけでは退屈する。たとえばですよ、あの盟友小泉にこういうチャーミングな恋人がいて、プッチーニのオペラを一緒に見に行ったという話がもしあったら、やっぱり喜ぶ。そういう情報を見ながら、自分のところに上がってくるレポートがどのくらい核心にヒットしてるのかを、大統領もやはり見ています。だからそういう、カラフルな情報も必要なのでしょう」

敵を知り、己を知れば、百戦すれども危うからず。孫子はそう言ったけれど、カラフルな情報も含めて、相手の国の内情を知り抜いている指導者と、そういう手段を持たない指導者とが政治の駆け引きをしたとき、どちらが勝つかはあまりにも明白だ。日本外交の迷走ということが言われるけれど、目隠しをしているような状況では、それも仕方のないことかもしれない。

CIAにMI6、モサドといえば、読書好きの日本人なら子供でも知っている。けれど、それが現実に存在する政府機関であり、その要員が東京にも多数存在しているという事実については現実感が極めて希薄だ。スパイやインテリジェンス・オフィサーは、この国では、魔法使いやドラゴンと同列の、ファンタジーの登場人物に過ぎなかったりする。我々一般人はともかく、政府の役人たちもその認識には大差がないと彼は言う。

「ケンブリッジ大学の東アジアの専門家が来日したとき、僕にどうしてもわからないから教えて欲しいと言ってきたことがある。テポドン2号の発射実験の直後です。日本の一連の新聞報道に、ミサイル発射に備え、当時の安倍官房長官の私邸に国際ハイヤーを24時間待機させているという記事があった。それが理解できないと、彼は言うわけです。『それとも、この国際ハイヤーは、日本の情報機関に属す特別な会社なのか』と。嘘を言うわけにはいきません。表も裏もない民間のタクシー会社だと答えたんですが、彼は首をひねるばかりだった」

丁寧に紡いだ蜘蛛の巣は、ライオンをも捕らえる。

北朝鮮がミサイル発射を強行したとき、日本政府がどう対応するか。それは、各国の情報機関員にとって、喉から手が出るたぐいの重要な情報だ。その鍵を握るはずの官房長官が乗るクルマが、乳母車なみに無防備なことを、ケンブリッジの教授は理解できなかったのだ。

「もし誰かがその情報を得ようと思えば、盗聴器だって、電波発信機だって、簡単につけられます。そもそもハイヤーのドライバーさんに、守秘義務を課すわけにはいかない。きちんとしたタクシー会社の優秀なドライバーなら、積極的に喋ることはないでしょう。けれどプロのインタビュアーにかかったら、ひとたまりもない」

おそらく、そういう背景もあるのだろう。昨今では、政府内でも、日本に情報機関を作るべきだという議論が生まれている。

「確かに現在の安倍首相の官邸には、日本型のCIAを作ろうという動きがあります。でも組織を作っても、人材が揃わなければ意味がない。麻生外務大臣が、こんなことを仰っていました。『手嶋さん、でも日本ではそれが難しんだよね』と。日本には昔から、情報機関と言えば、十手持ちやお庭番のように、将軍お目見え以下、身分の低い人の仕事だった。紳士の仕事といわれる英国とは大きなへだたりがある。麻生さんは、イギリス情報部のことも、よく御存知なんですね」

この話については、多少の説明が必要かもしれない。手嶋はこの秋、一冊のトラベル・エッセイを上梓した。『ウルトラ・ダラー』と違って、地名も人名もすべて実名。彼と一緒に世界中を旅して、スパイマスターや歴史に残る政治家、あるいはブリティッシュ・エキセントリックと呼ばれる、奇妙だけれど愛すべき人々と、会って話をしたような気持ちになるエッセイの名品集だ。その中に、英国スパイの見分け方を論じた一編がある。

「もしあなたが、そのイギリス人の上着の内側をちらりとでも垣間見るチャンスがあったらの話ですが、かなり有効な判定法があります。背広の内側にネームやテイラーの縫い込みが見つかれば、その男は秘密諜報部員ではありません」

その「知りたがり屋のジョージア」という作品の中で、手嶋はそう書いている。背広の内側に名前もテイラーの名前も入っていなければ、その背広はロンドンのサヴィル・ローにある名門テイラーで仕立てられたということ。つまりそのスーツを着た人物が、上流階級に属することを意味する。英国において、インテリジェンスの仕事を担うのは、国家に責任を持った名誉ある階級の人々なのだ。情報活動というものに対して、日本とイギリスではかくも大きな意識の差があるということを、麻生大臣は言っているわけだ。

「情報機関を作るべきだなんていうと、きな臭い話と感じる人もいるかもしれない。けれどそれは、日本を軍事大国にしようというような議論とは、まったく別の話です。むしろそうならないためにも、日本は耳の長いウサギである必要があるのだと思う。『かぼそい蜘蛛の巣も皆で丁寧に紡いでいけば、ライオンでも捕まえらえる』という言葉があります。2匹の百獣の王に挟まれた日本にとって、インテリジェンスのネットワークという蜘蛛の巣は、かけがえのない武器だと思うのですが……」

ちなみに、彼のそのエッセイ集のタイトルを『蜘蛛の巣とライオン』という。

手嶋はそこまで話すと、ふと信号待ちをしている外国人女性に目をとめた。彼女は左肩に花木の枝をまとめた袋をかついでいた。生け花の習い事の帰りだろうか。手嶋はその女性に近づくといきなり声をかけた。花の袋を覗き込んで、なにやら質問をしている。女性は思わず笑って応えていた。世界中のあちこちの街で、彼がいとも簡単に驚くべき人物たちと出会える秘密に触れた気がした。あの旺盛な好奇心が、すべての鍵なのだ。生け花を習う外国人女性。些細なことでも興味を持てば、取材せずにはいられないのだろう。

いや、待てよ。それは、ほんとうに些細なことなのか。彼はこんなことを言っていた。

「あなたがもし、この人物はその筋の人に違いないと直感したら、そういう人物は、間違いなく堅気です。その反対に……」

らしくない人ほど、諜報部員の可能性があると言うのだ。それにしても、まさか、あのチャーミングな女性が、ねえ?

ゲーテ2007年1月号掲載 取材・文/石川拓治

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