手嶋龍一

手嶋龍一

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「危機の指導者 第3回 ブッシュの戦争と金正日の核」

小雨のなかの白い墓標

アメリカの大義を信じて祖国に殉じた兵士たちが眠るアーリントン墓地。イラクの前線で逝った戦士を送る葬列は小雨に煙っていた。黒いベールをかぶった三十代の美しい夫人が小さな男の子を伴って夫の棺につき従っていた。男の子は遥か彼方の戦場で父の身の上に起きた惨劇をすでに告げられているのだろう。海兵隊員の手で棺が埋葬されるそのとき、夫人はわが子の背中をやさしくさすっていた。そのほっそりとした指先が悲しみに耐えかねかすかに震えている。それは、ダラスで凶弾に倒れ、ここアーリントン墓地に葬られたケネディ大統領の葬儀でジャックリーン夫人にまとわりついていたジョン坊やを思い起こさせた。

アーリントン墓地で母子のこうした光景に触れる四週間ほど前のことだ。パイロット・スーツに身を包んだブッシュ大統領が自ら操縦桿を握り、太平洋上を航行していた原子力空母「エイブラハム・リンカーン」に着艦した。そして飛行甲板で一ヶ月あまりに及んだイラク戦争の終結を誇らしげに宣言した。二〇〇三年五月一日のことであった。これが戦時の大統領にとって最後の晴れやかな舞台となった。

アーリントン墓地の母子も、この様子をテレビで見ていたことだろう。これで父親はまもなく家に無事戻ってくる―。そう信じて疑わなかったはずだ。あの棺に納められたひとは、遅れてきた戦死者となった。終わったはずの戦争は幕を閉じようとせず、前線の戦死者は増え続けた。少年の父親は二百二十番目の戦死者となった。

こうして前線の兵士たちは、戦争の終結宣言の後も、ひとり、またひとりと物言わぬ姿で祖国に還ってきた。アーリントン墓地にはイラク戦争で犠牲となった兵士たちの埋葬場所があらたに設けられ、墓碑銘にはすでに二百名近い犠牲者の名前が刻まれていた。いまはその十倍を超える戦死者が真新しい墓石を連ねている。そしてなお烈しい戦闘が続いている。これほどの悲劇が起きようとは、ブッシュ政権の中枢にあった誰もが想像すらしていなかった。

九・一一事件の二周年式典がペンタゴン前の広場で行われたとき、一般の兵士たちの前で足を止めたポール・ウォルフォウィッツ国防副長官と行き遭い、その表情に心奪われたことがある。この戦略家の面差しにあまりに深い孤独の影が差していたからだ。だが、超大国アメリカを襲った苦悩はまだ幕を開けたばかりだった。

「戦争計画」の雪片

アメリカの四十三代大統領、ジョージ・ウォーカー・ブッシュは、果たしていつ、イラクに力を行使すると決断したのか―。

超大国の安全保障をつかさどる政権の高官、幾人に尋ねても、内部の機密文書を探ってみても、この疑問を解いてくれる鮮明な像は一向に焦点を結ばない。イラク戦争に連なる道程のここが和戦の岐れ路だったと言い当てることがかなわない。四軍の最高司令官として、アメリカ大統領が対イラク攻撃を決断した瞬間の輪郭はいまなおぼやけたままなのである。

ブッシュ大統領は、常の政治リーダーが力の行使にあたって直面するような逡巡のときを持たなかったのではないか。国防当局への些細な指示が、ひとたび巨大な戦争マシーンに移されてしまえば、制御不能なほどに重大な結果を生み出してしまう―。大統領も後になって、そうした現実に気づいて慄然としたはずだ。それは、小さな雪の塊が、銀色に輝く斜面を滑り落ちていくうち、巨大な雪塊に肥え太り、巨人を吹き飛ばしてしまう様に似ている。

アフガニスタンへの進行作戦が始まって一ヶ月あまり。ホワイトハウスのシチュエーション・ルームでは、しばしば戦時内閣の閣議が催された。国家安全保障会議のメンバーのひとりが、この戦時閣議のあとブッシュ大統領とラムズフェルド国防長官が交わしたやりとりが、戦いのその後を決定したと囁いてくれた。イラクへの攻撃に備えた作戦計画を洗いなおしてほしい―。この大統領のひとことがラムズフェルド国防長官を突き動かした。かくしてペンタゴンの機密文書庫からイラク攻撃を想定した「作戦計画一〇〇三」がひそかに引き出された。このウォー・プランこそ、アメリカをイラク戦争へと誘い込む小さな雪片となった。

国防総省では世界の各地域で武力衝突が起きる事態に備えて「戦争計画」をあらかじめ策定してある。北朝鮮の韓国への侵攻、人民解放軍の台湾武力解放、危機の三日月地帯といわれる中東紛争―。その数は六十八にものぼる。「危機の兆しあり」というインテリジェンスを受け取ると、ペンタゴンの作戦幕僚は、それらの地域にかかわる機密文書を取り出して、ウォー・プランを練り直し不測の事態に備る。

イラクに対する「戦争計画」を洗い直すように指示したからといって、対イラク戦を決断したわけではない―。ブッシュ大統領は自分にそう言い聞かせたのだろう。中東の独裁者は、超大国アメリカが戦いも辞さない決意を示すことで恭順の意を示すかもしれない。そのときは「戦争計画」を黙ってもとの棚に収めるだけのことだ―。

だが、大統領の意を受けたラムズフェルド国防長官は「戦争計画一〇〇三」を再び書類庫には戻そうとしなかった。「戦争計画」は、対イラク戦に向けてひたすら自己増殖を続けていった。陸、海、空、海兵の四軍に対する絶大な指揮権を握っているはずのアメリカ大統領も転がりながら膨らんでいく雪塊の前には無力だった。 

ネオコンの戦略家たち

ブッシュ大統領を「戦争計画一〇〇三」の見直しへと誘っていったものは何か。それは共和党政権を強硬派一色に染めあげていた時代の空気だった。チェイニー副大統領に代表される保守強硬派の太い系譜。その一角をネオコン・新しい保守主義者と呼ばれる一群が占めていた。小数だが知的でパワフルな人々だった。ときに「知的な特殊部隊」と形容される彼らは、強持てのイメージとは異なり、物静かで内省的だった。

国防副長官をつとめるウォルフォウィッツ、国防政策委員会の議長、リチャード・パール、そして国防次官のダグラス・ファイス。この三人が「ネオコンのトライアングル」を形成し、大統領をイラク戦争へと牽引していった。

彼らのまえでは、共和党穏健派の流れを汲む国務長官のコーリン・パウエルと国務副長官のリチャード・アーミテージは「政権の冷蔵庫に閉じ込められているようなもの」と自嘲するほど影響力をなくしつつあった。アメリカの大統領制は、結局、大統領との近さがすべてを決めてしまう。

大統領にぴたりと寄り添うネオコンには、従来の保守派と一線を画する特徴があった。第一に、旧ソ連のアフガニスタン侵攻を許してしまった民主党のカーター政権の対外政策に失望し、共和党に身を寄せた人々だった。第二に、その多くが、ナチズムとスターリニズムという二つの全体主義の迫害を逃れてきたユダヤ系の移民だった。第三は、それゆえ、自由な理念を掲げるアメリカは、時にその強大な軍事力を使っても、圧政にあえぐ人々を助けるべきだとする力の信奉者であった。

ネオコンの戦略家たちは、レーガン共和党政権に投じて以来、イラクの独裁体制を倒し自由な国家を築くべきだと唱え、それがイスラエルの安全保障をもより確かなものにすると主張した。東西冷戦の終りと共に始まった第一次湾岸戦争では、クウェートの主権を回復するだけでは十分ではない。イラクの首都バクダッドを一挙に衝いてサダム・フセイン政権を転覆すべきだと唱えて譲らなかった。しかし、国際協調を重んじる四十一代のブッシュ大統領は、クウェートの主権を回復した以上、国連決議に従って淡々と兵を引き、バグダッドからフセイン政権を逐うとはしなかった。

だが、ウォルフォウィッツらネオコンは、戦いをあきらめなかった。湾岸戦争から一年後、新しい「国防計画の指針」の草案を取りまとめ、イラク攻撃のテーゼをひそかに潜りこませたのだった。

「国際社会が危機に対応できないなら、アメリカは単独行動もためらうべきではない。大量破壊兵器の開発を目指す者には先制攻撃も辞さないといった強い姿勢で臨むべきだ」

この「国防計画の指針」の草稿は、穏健派が有力紙「ニューヨーク・タイムズ」にリークしたことで潰されてしまう。だが、それから十年後、四十三代ブッシュ大統領が推進する対イラク戦の内在論理として蘇ったのである。

先制攻撃の思想

「われわれは、テロに手を染めた者だけでなく、そのテロリストを匿う者も等しく罰することをすでに決めている」

二〇〇一年の九月十一日に起きた同時多発テロ事件のあと、ブッシュ大統領が初めて国民に直接語りかけたスピーチだ。

このひとことこそ超大国アメリカの針路を決定づけ、それゆえ「ブッシュ・ドクトリン」の名で呼ばれることになる。ブッシュのアメリカは、米本土を襲って、政治・経済の中枢を破壊した国際テロ組織に無期限・無制限の戦いを挑んでいく。過去にいかなる政権も打ち出したことのない対テロ永久戦争の宣言。ブッシュ大統領は、国務、国防の首脳にも一切相談することなく、この原則を口にしたのだった。

「ブッシュ・ドクトリン」は、直ちにタリバン政権が支配するアフガニスタンに適用される。それによって、国際社会は、ブッシュ大統領が有言実行の人であることを思い知らされることになる。

ネオコンは、いまこそ、彼らの主張を実行に移す千載一遇の機会が訪れつつあることを知っていた。サダム・フセインのイラクを次なる標的に―。これがネオコンの合言葉になった。イラクは水面下で国際テロ組織アルカイダを支援している。さらには大量破壊兵器を保有し、アメリカの本土を脅かしている。こうした独裁制の脅威が現実のものである以上、アメリカは座して彼らの攻撃を待つべきではない。先んじて力を行使することをためらってはならない―。こうして、ネオコンの先制攻撃論は、政権内部に浸透していった。

このようなネオコンの論理は、ユダヤ民族を襲ったあの大量虐殺の教訓に深く根ざしていた。ウォルフォビッツもパールもそしてファイスも、両親こそかろうじて自由の国アメリカに逃れたものの、叔父や叔母の大半をアウシュビッツ収容所で亡くしている。圧倒的な不正義を目の当たりにしながら、なす術を知らないなら、自らが滅ぼされてしまう。殺られる前に殺れ―。そこには彼らの体験に刻印された先制攻撃論が脈打っている。

  

同時多発テロ事件の後、ホワイトハウスがとりまとめた「国家安全保障戦略」には「先制攻撃」の文字がはっきりと明記された。第一次湾岸戦争での挫折から十年の歳月が流れていた。

敵の差し迫った脅威を前もって取り除くため、先手を打って攻撃に出る。ブッシュ政権に根を張ったネオコンの内在的な論理に従えば、「先制攻撃」とは正当防衛に近い概念なのである。従って、真珠湾攻撃のような最後通牒なき奇襲攻撃とは違い、違法ではないと彼らは主張する。

悪の枢軸スピーチ

九・一一の年から明けて二〇〇二年を迎えると、ホワイトハウスにみなぎる空気にはピーンと張り詰めたものが感じられるようになった。それは近づく戦争の静かな足音でもあった。国務省の政策企画本部長リチャード・ハースは、定期的にホワイトハウスを訪れて、国家安全保障担当の大統領補佐官コンドリーザ・ライスと国際情勢を検討していた。イラク戦争の是非を論じようとしたハースをライスは手で制していった。そのことならすでに決定は下されている。あなたと議論しても意味がない―。ライスは多くを語らなかったが、大統領の胸のうちはすでに固まっていることを、そんなしぐさで示したという。

イラクへの力の行使がいかに大義にかなったものであるかをどのようにして内外に説明して理解を得るのか。この頃ホワイトハウスの関心はそこに移りつつあった。

ブッシュ大統領のスピーチを担当するホワイトハウスのスピーチライターたちの動きが慌ただしくなっていった。二〇〇二年一月末に連邦議会で行われる一般教書演説でイラク問題を中心テーマに据えなければならなかったからだ。

演説全体の取りまとめにあたるのは、マイク・ガーソン。大統領と同じキリスト教右派の系譜に属するジャーナリストだ。そして演説の核心部分を任されたのはデビット・フラム。フラムは、共和党右派の主張に近い紙面づくりをしていた「ウォールストリート・ジャーナル」の政治担当編集者だった。なぜアメリカはイラクを攻撃するのか―。その理由を説得力のあるフレーズで書き上げる大任が、このカナダ国籍のジャーナリストに委ねられた。

フラムは筆者に大統領スピーチが誕生する瞬間をこう語ってくれた。

「九・一一事件とイラクを何とか結び付けたかった。そのためには従来の主権国家を超越した枠組みを核心を衝くフレーズで何とか言い表せないものかと思ったのです。かつての日独伊枢軸を思い起こさせる言い回し、そう、そこで『憎悪の枢軸』とコンピューターの画面に打ち出したのです。大統領がお好みのエリアルという書体でね」

「憎悪」という言葉を使ったのは「イラクやイランそれに北朝鮮を結び付けているのは自由と民主主義に対する憎悪に他ならなかったから」だという。

ブッシュがホワイトハウスで演説の草稿を検討するのは決まって早朝の六時半だった。午前八時からはCIAの長官によるインテリジェンスのブリーフィングが予定されているが、そうした秒刻みの日程が始まる前の静謐のなかでスピーチに朱筆を入れることを好んだという。

フラムが早朝、他の演説と同じように草稿を手渡すと大統領は、フラムが書いた「憎悪の枢軸」に自ら手を入れ、「悪の枢軸」に書き換えたという。イービル・悪という言葉が好きだったのである。

「大統領は大量破壊兵器の開発に手を染める『ならず者国家』の脅威をもっと明快な言葉でずばりと言い表すことはできないかと考えていました。アルカイダのような国際テロ組織があり、その背後には国境を越えてテロを支えるイラク、イラン、北朝鮮のような『ならず者国家』群がいる。大統領はこうした現代の脅威をひと括りにして、ずばりと切り込むフレーズを探し求めていたのです」

フラムが「悪の枢軸」スピーチの草稿に幾度も手を入れていたそのとき、ホワイトハウスの中枢では、大統領がイラクを攻撃するかどうか疑うのはもはや愚かなことだという雰囲気が支配的だったという。大統領は自らの言動をかならず実行に移してきた。だから、こんども必ずやると補佐官たちは無言のうちに了解していた。

ブッシュ大統領は、スピーチでは「悪の枢軸」と言いながら、その標的はひとりイラクだけにぴたりと定められていた。残るイランと北朝鮮は、イラク攻撃の意図を鮮明にしすぎることをカモフラージュする一種の偽装工作でもあったという。だが、その一方で、イランの名を挙げることにホワイトハウスの国家安全保障チームは逡巡した。イランの大統領は民主的な選挙で選ばれており、イラクや北朝鮮と同列に扱うことには問題があると考えたからだ。だが、ここでもブッシュが「三国を列挙することでいい」と結論を出している。

その一方でホワイトハウスの記者団から「イラク攻撃の決意を固めたのか」と問われると、ブッシュ大統領は「自分の机の上にはあらゆる選択肢が載っている」と答えることが日常となった。「一期目の任期中にはフセイン政権は倒されると見ていいのか」という問いかけには「仮定の問題には一切答えるわけにはいかない」と応じる。その一方でブッシュ政権の統帥部は、バグダッド攻略に向けて着々と布石を打っていたのである。

大統領の書斎

白い壁に架けられたジョージ・ワシントンの肖像画が、暖炉の左右に置かれたふたつの椅子を見下ろしている。建国の父たちがその理念を綴った書物が書棚に並んでいる。決断の重みに耐えかねた歴代の大統領が、ここホワイトハウスのライブラリー・ルームに籠もって、しばし思索にふけったという。

私は見事なアンティークの椅子のひとつに座って、やがて始まる大統領のインタビューに思いを巡らせていた。大統領はイラクへの力の行使をどこまで窺わせるのか―。北朝鮮には和戦いずれで臨むつもりなのか―。

そのとき、部屋のドアがわずかに開いた。大統領が予定より早く姿を見せたのかもしれない。椅子から立ちあがったのだが、顔をのぞかせたのは少年だった。半ズボン姿に黄色の蝶ネクタイ。瞳はつぶらな光を湛えているのだが、半ズボンから覗いた両足はかぼそかった。後ろにはホワイトハウスのスタッフと母親らしき人が付き添っている。

「大統領の座る椅子にこの子を腰掛けさせてくださいませんか。ローラ夫人の特別なお客様なのです」

喜んで、と手招きすると、少年はおずおずと手を差し伸べてきた。その指もひどく華奢だった。

「大統領閣下、二、三お尋ねしてもよろしいですか」

少年は、かすかに微笑んで頷いた。小さな大統領との会見はあっという間に終わり、ありがとうと言った。去り際にスタッフが耳元で囁いた。

「あの子はあと二ヶ月ほどの命なのです。小児性の白血病です。ローラ夫人があの子からの手紙を受け取り、急遽ホワイトハウスにお招きしたのです」

ファーストレディのローラ夫人は、失読症の子供たちに本を読んで聞かせる活動に取り組んいる。基本的な単語の綴りすら認識できない障害を持つ子供たちを有効に治療する方法は見つかっていない。気の遠くなるような忍耐を求められる読書教育を永年続けてきたのである。やがて始まる中東の戦いでは現地の多くの子供たちも命を落とすことになるのだろう。大統領から戦争の決意を引き出すことに気が重くなった。

 

北との対話の窓は開けている

ジョージ・ブッシュ大統領が、コンドリーザ・ライス補佐官を伴って姿を見せた。何を聞いてもらってもいいという。おおらかな笑顔を見せながら、日本の国会演説ではイチロー選手に触れようと思うが、このアイディアはどうだろうと尋ねるほどご機嫌だった。

「大統領は、連邦議会のスピーチで悪の枢軸と発言されましたが、イラクへの力の行使はすでに具体的な日程に上っているのですか」と直截に問い質してみた。

「イラクへの軍事行動をとらずに済めばそれに越したことはないのだが―。だが、われわれ自由を愛する国々は、人権を抑圧し、大量破壊兵器を他国に売りつけ、テロリストを支援するような国々を決して許しておくわけにはいかない。こうした国々には、明確なシグナルを送るべきだと考えている」

「やはり、サダム・フセイン政権への武力行使は動かないのでしょうか」と畳み掛けてみた。

「アメリカは、あらゆる選択肢を視野に入れ、その対応策を考えている。テロとの戦いの新たな展開に向けて、反テロ包囲網を敷く国々と結束を乱さないためにも、日本をはじめとする同盟国とは緊密に協議を行っていきたい」

国際政治の世界では、「あらゆる選択肢」は武力行使を意味している。大統領は、イラクへの武力発動に際しては、日本などの同盟国と周到な事前の協議を行う考えをはじめて示したのだった。

「大統領が悪の枢軸の一国に挙げた北朝鮮にもイラクと同じように力を行使するつもりなのでしょうか。それとも交渉によって事態を打開しようとしておられるのでしょうか」と問いただした。

「私は北朝鮮に対して対話をしようとこれまでも提案してきた。しかしながら、北朝鮮側は、話し合いに頑として応じようとはしなかった。彼らはなかなか交渉のテーブルに就こうとしないが、自分には彼らの真意が判りかねるのだがね―」

ブッシュ大統領はこのように述べ、アメリカが北朝鮮側との対話の窓口を閉じたわけではない、北の独裁国家が話し合いに応じようとしなかっただけなのだ―。大統領は、こうした部妙な言い回しで、北の独裁国家が求めてくれば対話に応じてもいいことを初めて明らかにしたのだった。

イラクには武力行使を、一方の北朝鮮には対話を、という方針を初めて明らかにした瞬間だった。

「私には、北朝鮮を支配しているあの独裁者が北朝鮮の人民を代表しているとは思えない。だから、より自由で暖かな陽ざしを降り注げば、北の人々も自由を求めることになるはずだ」

大統領は、韓国の太陽政策に理解を示していることすら示唆して、北朝鮮を対話に誘い出す姿勢を滲ませたのだった。北朝鮮の独裁者とその体制に激しい嫌悪の情を露わにしながら、ブッシュ政権は、イラク戦争を前にして、中東と東アジアの二正面作戦を遂行することはもはや無理であることを認めざるを得なかったのである。

東アジアで武力行使に引き込まれるような事態は、何としても避けなければならない。こんな配慮は、台湾問題をめぐる発言にも窺われた。

「台湾海峡情勢はきわめて微妙な問題だが、米中両国は、開かれた対話を行うことは可能なはずだ。台湾問題の平和和解決を支持し、ひとつの中国政策をわれわれは堅持していく」

ブッシュ政権はそれまで、歴代の民主、共和両政権の中でも際立って台湾よりの政権だった。台湾有事に際して、中国が武力介入してもアメリカが介入するかどうかを明らかにしないという従来の「あいまい戦略」を踏襲する姿勢を明らかにしようとはしてこなかった。むしろ中国が台湾の武力解放に傾けば、これを座視しないという姿勢を滲ませてきた。だが、イラク戦争の影が忍び寄るなかで、東アジアに戦略的な関心を振り向ける余裕をすでに失いつつあったのである。

核開発の幻影

ブッシュ政権は、イラクを包み込むクエートやカタールなどに新たな兵站拠点をひそかに築いて開戦に備えていった。そうすればイラクに戦端を開くと同時にアメリカの部隊を電撃的に展開できる。第一次湾岸戦争で投入した兵力五十万の半ばでもバクダッドを陥すことができる。敵の懐を疾風のように衝き、茫然自失に至らしめる―。これがラムズフェルド国防長官らの企図した「衝撃と恐怖」作戦だった。

いまやブッシュ政権に欠けていたのは戦争の大義だけだった。サダムが大量破壊兵器をもっているという決定的な証拠をブッシュ政権は何としても手に入れたかったのである。

「飢えた猟犬の眼前に投げ与えられた血の滴るような肉。それがあのニジェールのウラン鉱の話だった」 政権首脳が渇望するようなインテリジェンスを差し出したいという、情報機関の本能がつい剥き出しになってしまったとインテリジェンス・オフィサーは自戒をこめて認めている。

フセイン政権は、アフリカのニジェールからウラニウムを濃縮して造った酸化ウラン、いわゆるイエロー・ケーキ、五百トンを買い付けようとしている―。

ブッシュ政権は、大統領がシンシナティで行う重要演説でもこの問題を取りあげようとした。イラクへの力の行使を容認する決議を採択するのかどうかをめぐって国連での駆け引きがヤマ場を迎えていた二〇〇二年十月のことだった。

このニジェール情報は、イギリスの情報機関からもたらされたのだが、当のイギリスが信頼度は最低レベルと評価していたものだった。CIAも事実の裏づけが取れないと反対し、大統領スピーチからはいったん削られた。

この情報の真偽を確かめるため、アメリカが現地に派遣したのがジョセフ・ウィルソン大使だった。ニジェールがウラニウムをイラクと取引している証拠は得られなかった―。ウィルソン報告はこう断じたのだが、二〇〇三年の一般教書演説にはついにこの疑惑が取り上げられてしまう。憤りを覚えたウィルソン大使はメディアに真相を明らかにして政権を批判することになる。

ウィルソン大使の妻、ヴァレリー・プレイム女史は、CIAの秘密工作員だ―。こんな情報が有力メディアにリークされ波紋を広げていった。ネオコンが報復に出たと伝えられたが、彼女の身分を明かしたのは穏健派のアーミテージ国務副長官だった。

このニジェールをめぐるウラン情報ほど、インテリジェンスが各国の情報機関を回遊するうちに肥え太っていく恐ろしさを物語るものはあるまい。

情報の震源地はイタリアの情報機関SISMIだった。長官のニコロ・ポラーリが、素性の定かでない情報屋から持ち込まれたニジェール文書をイギリスの対外情報機関SISに流している。後にポラーリは、ホワイトハウスと直接接触して、この情報を詳しく伝えたとも報じられている。

ポラーリが率いるイタリアの情報機関SISMIは、イスラム聖職者がイラクにテロ要員を送り込んでいるとして拉致。ミラノの検察当局は、ポラーリをはじめ関係者をターゲットに拉致事件の捜査を進め、事件の全容解明を急いでいる。この過程で、SISMIは、イタリアのアメリカ軍基地を拠点に活動するCIAの要員と密接に連携していた事実が明らかになり、検察当局はCIAの要員を含めた関係者を起訴する構えだ。

イラクの大量破壊兵器問題をめぐっては、すでに複数の公的な調査委員会が結論を米議会などに提出している。それによると、イラク国内には、核兵器はもとより生物・化学兵器などの大量破壊兵器は存在せず、具体的な開発計画もなかったという。イラクは核兵器の主要部品を入手しようと試みたものの、第一次湾岸戦争以来、経済制裁の影響もあって、核兵器を保有する能力を備えるには至っていなかったと断定している。またフセイン政権がアルカイダとは一切関係がなかったという。

ついに当のブッシュ大統領も「機密情報の大半は結果的に誤っていた」と認め、虚偽のインテリジェンスに基づいてイラクへの武力攻撃を決断してしまったことが明らかになった。だが、こうしたアメリカの錯誤は、自前の対外情報機関を持たない日本の情勢判断をも左右することになった。

昨日の戦争を戦った日本

独立国クエートの主権がイラクのサダム・フセイン軍によって突如として蹂躙された。一九九〇年の夏の出来事だった。

「日本としてはそう影響はないんだろうがねえ。ときかくきょう帰りますよ」

軽井沢で侵攻の一報を受けた当時の海部俊樹首相の最初のひとことだった。これほどの不正義を目の当たりにしながら、当時の日本は為す術を知らなかった。同盟国アメリカが、その持てる力のすべてを賭けて中東に駆けつけたとき、同盟のパートナーたる日本は、この国際紛争にかかわる志も、法的な枠組みも何一つ持ち合わせてはいなかったのである。

こんどのイラク戦争こそ、日本も果断に行動しなければ、日米同盟に再び大きな亀裂を生じさせてしまう―。日本の要路の人々は、あの第一次湾岸戦争での苦い体験から、そう信じて疑わなかった。

「あまりに小さく、あまりに遅い」

冷戦終結後の国際秩序を脅かすこの危機に際して、クエートの主権回復のために立ち上がろうとしない日本に、アメリカらは手厳しい批判が巻き起こった。

「血も流さず、汗も流さず、金しか出そうとしない」

確かに当時の日本は、増税までして欧米先進国のなかでは飛びぬけた百三十億ドルという巨費を拠出したのだった。にもかかわらず、主権をようやく回復したクエートが出した感謝国のリストには「JAPAN」の文字さえなかった。日本は国際社会から浴びせられた嘲りに耐えなければならなかった。

十数年前の日本は、国連の平和維持部隊に自衛隊を参加させる法律すら持ってはいなかった。否な、多くの日本の知識人は、平和維持活動に足を踏み入れることは、自衛隊の海外派兵に道を拓いてしまうと考えていた。当時の外務次官すらそうした論者の一人だった。自衛隊の海外派遣は、日本の軍事大国化を招くと信じていたのだった。その一方で、現地で人質にされてしまった自国民を救い出す策もなく、ただおろおろとするばかりであった。

国際社会から受けるこうした蔑みは不健全なナショナリズムを育む温床となる。強力な軍事力を持って強い国家に生まれ変わるべきだ―。日本に向けられる冷ややかな眼差しは、こうした感情を社会の底に滞留させていく。湾岸戦争での日本の敗北は、戦後日本に国際政治の現実にいや応なく向き合わせることとなった。

サダム・フセイン軍のクエート侵攻という現実を突きつけられた当時の日本は、自らの責任を回避する盾に平和憲法を持ち出した。そこには、日米の安全保障の盟約に安易に身を委ね、国際秩序の創造にかかわろうとしない日本の姿がさらけ出されていた。

アメリカのイラクへの武力行使が避けられない情勢となるなか、日本は、第一次湾岸戦争の轍だけは踏むまいと懸命だった。それゆえ、来るべきイラク戦争では、迅速に同盟国アメリカに対する支持を表明しようとした。国連決議に従って独立国クエートの主権回復に向かった四十一代ブッシュ大統領。国連決議を得られないまま先制攻撃に向かった四十三代ブッシュ大統領。その違いは歴然としていたのだが、日本政府は、イラクへの力の行使にひた走るブッシュ政権への支持の拠りどころをなお国連決議に求めたのだった。

イラク戦争がもはや不可避となったとき、小泉純一郎首相は官邸でこう語った。

「アメリカのブッシュ大統領は、フセイン政権が平和の道を選ばなければ、武力行使に訴えざるを得ないと述べている。やむ得ない決断だったろうと思い、米国の方針を支持する」

日本は、開戦に先立って早々とアメリカの先制攻撃を支持したのだった。こうしたアメリカ支持の理論構成を行ったのが外務省の条約官僚だった。この国際法の専門集団は、ドイツやフランスの強硬な反対に遭って、国連で武力行使の容認決議が得られなくなると、ブッシュ支持の論拠を過去の安保理決議に求めた。大量破壊兵器の廃棄や査察を求めた安保理決議「一四四一号」、「六七八号」、「六七八号」を挙げて、イラクへの攻撃を正当化しようとした。

イラク戦争が始まった直後に当時の竹内行夫次官はこう説明している。

「今回の先制攻撃、英語ではプリエンプティブ・ストライクなのですが、軍事的な意味でテクニカルな文脈の中で使われているのか、自衛権の行使という文脈で言われているのか。また、安保理に基づく武力行使であるのか、それとも違法な武力行使という先制攻撃なのかをよく考えなければ誤解を招いてしまう。何れにせよ、米国が行った三月二十日の武力行使は違法な先制攻撃ではなく、安保理の決議に従ったものであるというのがわれわれの考えです」

国際法上のテクニカルな解説を織りまぜながら、条約当局の有権解釈を回りくどく述べている。だが、その意図するところは明確だ。アメリカの対イラク攻撃は、大量破壊兵器の脅威を前にいま行動を起こさなければ、重大な結果を招いてしまう。この力の行使は過去の安保理決議に従って発動された先制的な攻撃であり、国際法に適っている。従って累次に亘って査察を拒み、大量破壊を保有してきたイラクに対するアメリカの武力行使を日本政府として支持するというものだった。

国連決議に責めを負わせたこの論拠が誤っていることはもはや説明の要もないだろう。だが、問題の核心は、より深いところにある。日本は、相携えて東アジアの安全保障を担う同盟国アメリカが武力を行使するにあたって、それを支持するか否かの論拠を国連決議に易々と頼ってしまった。東アジアで北朝鮮という独裁国家に相対し、勢いを増す中国のミリタリーパワーへの抑止力として、日本は超大国アメリカのプレゼンスを必要としているのではなかったのか。過去の安保理決議に逃げ込んで、アメリカ支持の論拠としたことで、同盟の本質に関わる議論は少しも深まらなかった。日本は、第一次湾岸戦争の失敗に懲りて、アメリカへの支持を急ぐあまり、今次の戦いの正当性を真正面から問おうとはしなかったのである。東アジアの最も重要な同盟国として、日本はアメリカを諌める素振りも見せなかった。極東の経済大国、日本は、昨日の戦争をひとり戦っていたのだった。

アメリカのあまりに永き不在

パキスタンでイスラム教の慈善活動をしていたクエートの青年がアメリカ軍に身柄を捉えられた。国際テロ組織アルカイダとの関係が疑われのだ。この青年は米軍輸送機に積み込まれ、遥かカリブの海に浮かぶグアンタナモ収容基地に送られた。

こうした囚われ人が機内で鎖につながれている模様を撮影した写真がクエートの留守家族に届けられた。ジュラルミンの冷たい床につながれ、目隠しをされたムスリムたち。その背後に巨大なアメリカ国旗が写っている。青年の父親は怒りに打ち震えながら星条旗を指差した。彼は第一次湾岸戦争にクエート空軍の義勇兵のパイロットとして馳せ参じ、星条旗のもとで米軍兵士と共に戦った。

「わが祖国に自由をもたらしてくれた星条旗でした。そんなアメリカという国を象徴していたはずの旗がこのような愚かな行為に使われるとは―」

彼は写真を堅く握りしめたまま言葉を喪った。イラク戦争は、宗派対立の果てに内戦の様相を呈し、アメリカの敗色は日々濃くなっている。だが、単に戦況が深刻なだけではない。アメリカが大義なき戦争に突き進んでいったことで、世界に聳え立っていた自由の理念が急速に輝きを喪いつつある。デモクラシーを標榜してきた理念の王国が凋落すれば、現代世界をいっそうの混迷に陥れてしまう。

大西洋同盟の主要なメンバーとして、戦後一貫してアメリカと行を共にしてきたイタリア。そのイタリアの検察当局がいま、ブッシュ流のテロとの戦いに叛旗を翻しつつある。イタリアの米軍基地を拠点にしてきたCIAが、イスラムの聖職者を国外に連れ去ろうとした行為を拉致犯罪だと断じて、イタリアの情報エージェントと共に起訴しようと動いているからだ。アメリカが対テロ戦争を名分に国外に連れ出して尋問することを認めないとした初めての行動だった。グアンタナモ収容基地で囚われ人の身の上に降りかかった不条理を許さないという姿勢を鮮明にしている。

超大国アメリカの挫折。それは国際政治のありようを変えつつある。とりわけその影響がくっきりと現れているのは東アジアだろう。そこには巨大な戦略上の空白が生じはじめている。アメリカのイラクでの躓きのゆえに、この地域にとって堅き砦であるべき日米同盟は内実を空洞化させつつある。

日米同盟の抑止力の劣化が、安全保障分野で北朝鮮の攻勢を招いている。イラク戦争の混迷から抜け出すことができずに苦しむアメリカ。そのゆえに生じた東アジアでのアメリカのプレゼンスの低下は、北朝鮮を取り巻く戦略環境を危ういものしている。

アメリカのブッシュ政権が、イラク、イランと並べて「悪の枢軸」と呼んだ北朝鮮。強大な軍事力で北の独裁国家を抑えこむ力が効いていないとみるや、北の独裁者は大胆な攻勢に出るようになった。二〇〇六年七月四日、アメリカ独立記念日に狙いを澄ませて、七発のミサイルを発射。国連は新たな安保理決議を突きつけたのだが、制裁なき弱いメッセージだと見立てるや、北朝鮮は採択のわずか四十五分後に「決議ヲ相手トセズ」と国際社会の意向を無視したのだった。

さらに二ヵ月後の十月九日、北朝鮮は中国などの説得を振り切って、核実験に踏み切った。北の核武装を断じて許さないという国際社会の総意も無力だった。そして日米同盟の抑止力も働かなかったことが明らかになる。これを受けて国連の安全保障理事会は、国連憲章七章に基づく経済制裁を全会一致で採択した。だが、この決議案には、北朝鮮船籍をもつ疑惑の貨物船を強制的に臨検できる条項は含まれていない。弱い効力しか持っていないことを誰よりもよく知っているのは北朝鮮だろう。そして、その本当の理由が、アメリカ側の事情にあることも見抜いているはずだ。

アメリカのライス国務長官は、ミサイル発射の時も、核実験の時も、中国が強硬な措置に反対しているためとして、穏やかな安保理決議の採択を関係国に促した。だが、水面下で中国側に弱い決議とするように働きかけたのは当のライス国務長官だった。

「ブッシュ政権が北朝鮮に対する強硬な措置をなんとか避けたいと動いた真意は明らかでしょう。イラクで苦しい戦いを強いられている現状では、東アジアでアメリカが武力発動に引き込まれるような事態は徹底して避けたいと考えているからです」

日本外交を率いる責任者の率直な本音と受け取っていい。

北京で一年一ヶ月ぶりに再開された六カ国協議でも守勢に追い込まれるブッシュ政権と一段と外交攻勢を強める北朝鮮という構図が鮮明となった。終始攻勢に出たのは北朝鮮だった。北朝鮮側は核実験を敢行したという自信を漲らせ、核開発問題を話し合いたいのならまずマカオの銀行で凍結されている北朝鮮の資金を返せと要求。アメリカ側は、金融制裁問題を個別に話し合うため、財務省の担当者を北京に送り込んでいたのだが、あまりの高圧的な態度に水面下で用意していたカードを出しそびれたほどだった。 

東アジアでは伝家の宝刀に手をかける素振りもみせないブッシュ政権。北の独裁国家は、自らの体制の保全を賭けて、こうしたアメリカの手の内を読みつくしているのだろう。イラク戦争で躓いてしまったアメリカは、東アジアでの余りに永き不在を招き、その戦略風景を変貌させようとしている。

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