手嶋龍一

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インテリジェンスの視点で杉原像を覆す快挙

 古都クラコフの秋は、駿馬のように駆け下りてくるという。凍てつく寒気にコートの襟を立て、ユダヤ人街だったノヴィー広場に露店を営む老婆と雑談を交わし、近くの古書店をめぐってみた。七〇年前、王都の風格を湛えるポーランドの街にヒトラーの戦車が襲いかかり、スターリンの狙撃師団も牙を剥きつつあった。この街に暮らすユダヤ人一家は、絶体絶命の死地からどう逃れようというのか―。石畳を歩きながら、わが『スギハラ・ダラー』は、杉原千畝の戦略眼を通して、次第に骨格を現そうとしていた。
 隣国リトアニアに情報拠点を構えた杉原は、欧州全域に張り巡らした諜報網を駆使して、国際政局を精緻に読み抜いて誤らなかった。彼の目となり耳となったのは、ポーランド軍のユダヤ系情報将校たちだった。スギハラ諜報網を通じて吸い上げられる貴重な情報の代償は、六千人のユダヤ難民に発給する「命のビザ」だった。動乱の世が生んだヒューマニスト外交官は、類稀なインテリジェンス・オフィサーだったのである。
 満洲時代の杉原はすでに完成された情報士官だった。北満鉄道の買収交渉では、白系露人の諜報網を使って、ソ連側を思うさま翻弄した。それゆえ、後にソ連当局から「好ましからざる人物」としてモスクワ勤務を拒まれている。優れたインテリジェンス・オフィサーは、シベリア狼のように足跡を残さないという。杉原もソ連側に諜報の手口を掴ませず、草叢にうっすらと匂いを残したにすぎない。
 そんな杉原を射程に収める人物はたったひとり、本書の著者、白石仁章にちがいない。ロシア大使館と向かい合う外交史料館を訪ねれば、私の読み筋を確かな史料で裏付けてくれるはずだ―。外交公電のヤマに分け入る白石の手並みは、シベリアの荒野に潜む猟師のように冴えわたっていた。
 『スギハラ・ダラー』の刊行からちょうど一年後に本書が刊行されたことは偶然ではない。白石仁章は、「命のビザ」のヒューマニズムの陰に隠れる杉原のインテリジェンス活動をくっきりと浮かび上がらせ、従来の杉原像を根底から書き換えてしまった。それを可能にしたのは、史料を渉猟する彼のインテリジェンス・センスだろう。

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