手嶋龍一

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著作アーカイブ

「時代を切り拓く青春群像」

第一回 大国の狭間に生まれて

 中欧の小さな国ハンガリーに魅せられて四半世紀が過ぎようとしている。まだ米ソ両大国が互いに核の刃を突きつけて対峙していた冷戦のさなか、80年代のことだった。突然ワシントン特派員を命じられて、西側同盟の盟主アメリカの首都へ赴いた。この冷戦都市は僕の好奇心を刺激してやまなかった。バルト三国は第二次世界大戦の直前、ふたりの独裁者、ヒトラーとスターリンの密約で真っ二つに引き裂かれ、やがて勃発した独ソ戦で独ソ双方が占領を繰り返したのだった。そして戦後は、ソビエト連邦に呑みこまれ独立を喪ってしまった。だが大使館通りと呼ばれるマサチューセッツ・ストリートには、バルト三国の大使館が生き残っていた。ソ連邦への併合を認めないアメリカ政府が、物心両面から亡命政権を支える拠点としていたからだ。

 東欧や中欧の衛星国から逃れてきた亡命者たちが「われらに自由と独立を」と訴えて、祖国の復興に希望をつないでいた。そんななかでも群を抜いて魅力的な人々がハンガリーからの亡命者たちだった。かれらの祖先は遥か昔、中央アジアからドナウ河の畔に移り住んだと伝えられる。彷徨える民族は、苦難の歴史を駆け抜けるごとに逞しくなり、眼前の災厄を独特のユーモアで笑い飛ばす勁さを身につけてきた。付き合ってみると、なんと人間臭く、そしてかすかな哀しみを漂わせていた。

 忘れ得ぬひとは誰と問われれば、ヤヌス・ラドヴァニーさんを迷わず挙げたい。初めて会ったときにすでに八〇歳に近かった。彼こそ激流の現代史を身を持って生き抜いた二〇世紀の生き証人だった。「ハンガリー大使亡命事件」の当事者である。ハンガリーの駐米大使などを歴任したこの外交官は、第二次世界大戦中は枢軸側に立った祖国の政府に抗って反ナチ・レジスタンスに身を投じた。戦後はハンガリー共産党員として、東側陣営の盟主ソ連邦との交渉役を担って頭角を現した。そして敵陣営の首都ワシントンに駐米大使として派遣された。その誠実な人柄から当時のディーン・ラスク国務長官からも篤い信頼を受け「ラドバニー・チャネル」は東西両陣営の地下水脈となった。

 クレムリンは、この秘密のルートを通じて重要なメッセージをアメリカのジョンソン政権に伝えるようになった。ベトナム戦争が激しさを増していた一九六六年のことだ。
「アメリカ軍が北ベトナムへの空爆を中止すれば、北ベトナム軍の南ベトナムへの浸透を見合わせ、和平交渉に応じてもいい」
 ラスク長官に率いられたアメリカ国務省は、北爆中止に抵抗する国防総省を何とか説き伏せ空爆を一時中止させた。だが北ベトナムは南への侵攻の手を緩める素振りも見せなかった。

 クレムリンに裏切られたと悟ったラドヴァニー大使は、祖国と共産主義を捨てる決心をする。翌六七年五月、ラドヴァニ―大使は通常の打ち合わせを装って国務省を訪れ、地下一階の隠しエレベーターに姿を消した。この東側陣営の大物外交官の亡命事件は、冷たい戦争を戦うクレムリンに衝撃を与えずにはおかなかった。アメリカのジョンソン政権は、この人を南部ミシシッピー州立大学の戦略研究所の所長に迎えて手厚く遇した。

 ラトヴァニー氏はワシントンを訪れる度に僕のオフィスにも顔を見せ、冷戦外交の素顔を様々に語ってくれた。その頃、彼の祖国ハンガリーでは、西側国境へ歩いて渡る「ピクニック計画」が企てられ、これがひとつの突破口となってベルリンの壁が崩れていった。ラドヴァニーさんも交わりを絶っていたハンガリーの人々と再会を果たしている。ワシントンのハンガリー大使館で催されたパーティの席上での出来事だった。ラドヴァニーさんが僕の傍に来てそっと囁いた。

「ほら、あそこに愛想を振りまいている男がいるだろう。あの男こそ、政治体制が変わるたびに大切な友人を裏切って当局に売り渡していたんだ」

 この中欧の小国が置かれていた過酷な運命を窺わせるひとことだった。枢軸側として第二次世界大戦を戦い、冷戦では東側陣営に組み入れられ、そして一九五六年には悲劇の動乱を迎えている。当時のハンガリーのナジ政権は、ワルシャワ条約機構からの離脱を宣言した。クレムリンはこうしたハンガリーの離反を許そうとしなかった。二十万人もの大軍をブタペストに送って叛乱をねじ伏せようとした。

「全体主義の支配に抗って祖国を解放せよ」

 ハンガリーの放送局は全土にこう呼びかけた。ブタペストの市街に雪崩こんでくる夥しい戦車を市民たちが手製の火炎瓶で立ち向かっていった。だが圧倒的な軍事力の前に、市民たちは追い詰められ銃弾に斃れていった。生き残った者はソ連当局に身柄を捉えられて刑務所に送られ、形ばかりの裁判で死刑が宣告された。

 ハンガリー動乱の犠牲者が眠るブタペスト郊外の墓地を訪ねたことがある。錆びついた扉を年老いた墓守がそっと開けてくれた。広大な墓苑の一角に真新しい墓石が連なっていた。自由を取り戻したハンガリーの人々は真っ先に少年たちの墓を建てたのだった。

「マンフレッド・ペーター」

 その墓碑銘には、享年一八歳、一九五九年と記されている。ハンガリー動乱から三年の後に処刑されている。全体主義体制の当局は、少年兵士たちが十八歳になるのを待ちかねたように、彼らを死刑台に送ったのだった。

 いまヨーロッパは深刻な経済危機に見舞われ苦しんでいる。欧州の統合に向けた求心力より分離に向けた遠心力が優っているように見える。だが、国境の垣根を取り払う情熱を喪うまいとしているように見えるのは、新しい時代を切り拓くために逝った若者たちの面影をなお心に深くしまっているからだろう。



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