手嶋龍一

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著作アーカイブ

未来を切り拓く者たち

―少数派の戦いの軌跡―

 ワシントン特派員と大学の研究所勤務を通じた十数年に及ぶアメリカ暮らしで、心動かされた人物は、と問われれば、僕は迷うことなくサンドラ・デイ・オコナーさんの名前をあげる。アメリカで女性として初めて連邦最高裁判所の判事となったひとだ。

 政治都市ワシントンD.C.では毎晩のようにディナーが催される。ブラックタイで正装した紳士の間に、小柄な年配のレディが席に就いていた。僕の席は彼女の隣りだった。短く自己紹介をすると、穏やかな微笑みを浮かべて「法律家です」と挨拶を返してくれた。おや、ひょっとすると―と、そのチャーミングな瞳に視線をやった。誕生して日が浅いアメリカ合衆国という人工国家が、歴史の転換点にさしかかった時には、必ずといっていいほど重要な指針を示してきた連邦最高裁判所の判事、サンドラ・デイ・オコナーさんだった。

 「ジャスティス」。正義をも意味する最高裁判所判事という言葉は、この国では特別な響きを持っている。日本の最高裁判事よりはるかに権威が高いだけではない。ハーバード大学やスタンフォード大学の名門ロースクールで、「将来、何になりたい」と尋ねると、かえってくる応えは「大統領」ではない。「ジャスティス」が圧倒的に多い。大統領職が最長八年に限られているのに対して、最高裁判事の地位が終生保障されているのが理由ではない。最高裁がアメリカ社会の進むべき新たな道を判決によって切り拓いてきたからだ。黒人が白人と小学校やバスの席を隔てられている現状を違法と断じた判決は、オバマ大統領誕生の先駆けと言っていいだろう。

 その名誉ある職も、一九八〇年までは男たちに全て占められていた。共和党保守派のロナルド・レーガン大統領が翌年、オコナーさんを指名し、女性の「ジャスティス」が史上初めて誕生した。そのひとが、我が隣席にいて微笑んでいる。補佐官も連れずにひとりで姿を見せ、どんな問いにも気さくに応じてくれた。いまアメリカ社会で何が問われているのか、誰よりも謙虚に、誰よりも熱心に、耳を傾けていた姿が鮮烈だった。

「あなたの未来をさえぎるものなどひとつもありません」

 少女、サンドラに繰り返し、語って聞かせたのは、母親だったという。サンドラはテキサス州エルパソの牧場に生まれ、アメリカ中西部の典型的な保守主義の風土のなかで育った。皆がアメリカのよき妻に、そして母になることが望まれた時代だ。社会のなかで女性が仕事を持ち、活躍できるなどとは思ってもいなかったという。民主主義の国、アメリカでも女性の連邦下院議員すらごく少数だった。そんな時代に、「サンドラ、あなたも男の子と同じように世の中に漕ぎだしていけばいい」と言い続けたのが母親だった。
 聡明なサンドラは、歳を重ね、世の中の様子がすこし分かるにつれて、「お母さんは私を励ましてくれているだけ。社会の現実は違う」と思うようになったという。だが、正しかったのは母親であり、彼女の言葉は預言者のそれだった。

 名門スタンフォード大学のロースクールを優等の成績で卒業し、弁護士の資格は得たものの、当時の一流の弁護士事務所は女性を採用してくれなかった。かろうじて公職が女性に開かれているだけだった。仕方なくカリフォルニア州の郡次席検事を務め、司法省に移って少しずつ階段を昇っていったという。そしてついに最高裁判事に任命され、任命式がホワイトハウスで行われた。

 「この場に最もいて欲しかった私の母の姿が見えません。母は、自分たちの世代には訪れないと思っていた時代が来ることを、澄んだ目で予見していました。あの母の言葉が、いまここにいる私を生み出してくれたのです」

 多くの女性が少女サンドラの後に続いていった。9・11同時多発テロ事件がおきる遥か以前から国際テロ組織「アルカイダ」の動向を察知し、法の裁きの前に引き出そうと「たったひとりの戦い」を続けたメアリー・ジョー・ホワイトもそのひとりだった。ニューヨーク南部地区担当の連邦首席検事をつとめ、その小柄な体躯と不屈の意志から「小さな巨人」と呼ばれた。彼女の両親は戦前、ナチス・ドイツの圧政を逃れてアメリカにやってきたユダヤ人だった。彼女の母親もまた娘に「あなたの将来をさえぎるものはない。未来は果てしなく開かれている」と言い続けたという。

 尖閣諸島をめぐる日中の衝突のなかで、キャスティング・ボートを握るヒラリー・ロ―ダム・クリントン国務長官もそんな女性群像の隊列にあったひとりだ。クリントン国務長官は、尖閣諸島が日本の施政権下にあることを前提に、中国がその尖閣諸島に軍事力で手をかけるようなことがあれば、日米安全保障条約第5条の適用をためらわないときっぱりと言い切った。二〇一〇年の国連総会を機に行われた日米外相会談での発言だった。第5条とは、日本の国土や在日米軍基地が攻撃されれば、アメリ自身が攻撃されたと同様に受け止め、軍事力を発動する条約上の義務を果たすというものだ。中国が尖閣諸島に武力行使の構えを見せれば、アメリカはそれを座視しないというのだ。 尖閣諸島は自国の領土だと主張する中国を牽制して、同盟国日本の立場に立つものであり、領土問題をめぐって公にされた、ここ三十年で最も重要な米政府首脳の発言だろう。並みの国務長官なら、こんな果断な物言いはしなかったはずだ。

 日米安全保障体制は、朝鮮半島と台湾の有事を想定したものだ。日米同盟は、とりわけ台湾の有事を想定した盟約なのだが、尖閣諸島はその前浜にある要衝である。一方の中国側にとっては、台湾は譲ることのできない中国の一部であり、それゆえ尖閣諸島の領有をめぐっても近年より強硬な姿勢を見せるようになっている。そうした地域で、クリントン長官が思い切った発言をした意義は小さくない。

 ヒラリーは、夫ビル・クリントンの大統領選挙の総参謀長役として、現職のブッシュ41代大統領を破る中心的な役割を果たし、やがて自らニューヨーク州選出の上院議員となった。そしていまや国務長官として活躍し、二〇一六年の大統領選挙では、出馬が囁かれている。中国はそのひとの尖閣問題の発言を撤回させようとして、外交工作の限りを尽くしている。いまの日本は、この人の確かな信頼を勝ち取り、日米の盟約を確かなものに出来るのだろうか。その新たな責務を担うのは、かつては社会の少数派だった、次の世代の女性かも知れない。



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