手嶋龍一

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「青春と読書」2013年9月号
コンドリーザ・ライス著『ライス回顧録 ホワイトハウス激動の2920日』(集英社)

Q. さりげない一枚の写真にも貴重な情報が埋め込まれていると手嶋さんは指摘しています。9・11テロ事件の直後にキャンプ・デービッド山荘で開かれたブッシュ政権首脳の会議を写した写真から何が読みとれるのでしょうか?

手嶋 この写真は、ホワイトハウスの公式カメラマンが映したごく普通の一枚です。のちに公開している、ごくありふれたスナップです。結論を言ってしまえば、この一葉の写真に映っていないものが重要なのです。後に、この日の山荘会合は、対テロ戦争の大きな方針を決めた重要会議と言われました。であるのに、政権の要人で招かれなかった者がいたのです。

 そう、コ―リン・パウエル国務長官と並ぶブッシュ政権の穏健派を代表するリチャード・アーミテージ国務副長官です。これに対抗する政権の強硬派は、ディック・チェイニー副大統領に率いられた一派であり、なかでもネオコン・新しい保守派にポール・ウォルフォビッツ国防副長官はその代表格です。国防副長官は会議のテーブルに就いているのに、国務副長官の姿が見えません。この段階ですでに強硬派が優勢であったことを物語っています。

 コンドリーザ・ライスはこの回顧録を通じてチェイニー副大統領とネオコン一派への憎しみを露わにしています。しかし、NSC・国家安全保障会を取りまとめて、大統領が軍事力の行使に突き進むか否かを補佐するのが彼女に課せられた責務であったはずです。この山荘会議を準備した過程でしたたかなチェイニー一派にしてやられていたことを窺わせます。さらに言うなら回顧録では、ライスはイラク戦争の前から開戦に慎重な穏健派に自らを色分けしていますが、内幕をよく知るインサイダーは、彼女のスタンスそのものに疑問を投げかけています。その点でもこの回顧録は興味が尽きません。

Q. ライス回顧録には「インテリジェンス」という言葉がしばしば登場します。情報と日本語に訳していないのは理由があるのでしょうか。

手嶋 面白い指摘ですね。じつは、情報と訳してしまうと、インテリジェンスの意味するものが正確に伝わらないのです。もっというといまの日本語にはちゃんとした訳語がない。インフォメーションもインテリジェンスも訳せばともに情報なのですが、この二つは似て非なるものです。冒頭の山荘会議の写真の例でご説明しましょう。あの写真には、雑多な情報つまりインフォメーションが盛り込まれています。しかし練達の情報のプロにかかれば、そこに映っているネオコン、映っていない穏健派、その意味するものが読み解かれていく。そして、ブッシュ大統領を挟んで拮抗する両派の均衡が崩れていく分かれ目になったのが山荘会議だったことが明らかにされていきます。インフォメーションの海に埋もれているもののなかから紡ぎ出された、最上級のひと滴こそインテリジェンスなのです。

Q. テロの朝、NHKワシントン支局長として一報に接したのですね。

手嶋 ええ、ニューヨークのワールド・トレード・センタービルに小型機が衝突したらしいというPBSラジオのブレーキング・ニュースを出勤途上の車で聞いたのが最初でした。緊急ニュースははじめ操縦ミスによる衝突事故らしいと報じていましたが、咄嗟に悪い予感がしました。その八年前の一九九三年、この高層ビルの地下に爆弾を仕掛けられ、それが国際テロ組織アルカイダの犯行だったことが明らかになっていたからです。

 オサマ・ビンラディンに率いられたアルカイダはアメリカ本土を狙っている――。事件の直前、CIAの首脳陣は、ホワイトハウスにライス国家安全保障補佐官を訪ねて機密情報を告げ、ブッシュ政権は対抗措置をとってほしいと暗に促したのです。しかし、政府部内のインテリジェンス機関を束ね、大統領に重大情報をあげる責務を担う国家安全保障担当補佐官としては、直ちに行動するとは言えなかったのでしょう。アメリカ本土のどこに、どんなテロ攻撃が迫っているのか。その時期はいつか。精緻なインテリジェンスがなければ、大統領を動かすわけにはいかないと拒んだ様子がこの回顧録に記されています。

Q. ライス補佐官は同時多発テロを防げずアメリカ本土を初めて敵の攻撃に委ねてしまいます。これにどう対応するか、国家安全保障補佐官としての葛藤がリアルに描かれていますね。

手嶋「ホワイトハウスの奥深くで政権中枢の動きを追っていましたから、ここでもライスが書いていること、敢えて書かなかったことを較べて、事実はどうだったのか、回顧録は多くの材料を提供してくれます。事件当日の夜、ヘリコプターでホワイトハウスの中庭に舞い降りたブッシュ大統領は、アメリカを襲ったテロリストと彼らを匿う国家を分け隔てしないと述べました。この瞬間、ライス補佐官はずかずかと前に踏み出し、ブッシュ大統領の腕をギュッとつかむと、オーバル・オフィスに伴っていきました。大統領のこの言葉こそ、アメリカが対テロ百年戦争を遂行すると宣言するに等しかったからです。テロリストを殲滅するだけではなく、その背後でテロ組織を匿う国家と果てしなき戦いを続ける決意を示していたからです。

 こうして「ブッシュのアメリカ」は、イラク戦争に突き進んでいきます。ライス補佐官は「執拗にサダム打倒の必要性を訴えていた人々の間では、短期間だが、ある種のうぬぼれが蔓延していた。その象徴ともいうべき人物が副大統領だった」と述べています。政権で国家安全保障補佐官を務めた人が副大統領をここまであしざまに言うのは異例です。しかし、ネオコンが主導するブッシュ政権にあって、彼女がどこまで真剣に抗ったのか、回顧録では明確な記述は見当たりません。

 イラクが大量破壊兵器を保有しているというインテリジェンスを大義名分にブッシュ政権はイラクへの武力行使に踏み切りました。しかしこのインテリジェンスが惨めなほどに間違っていました。彼の時「どこで私は間違ってしまったのだろうか?たしかに、大量破壊兵器の問題を、より大局的な対サダム戦略と切り離して考えるようになってしまった。私は情報機関からの断片的な情報を引用すること、とりわけ大統領がそれを引用することを、認めるべきではなかった」と述べています。

 ライスは、インテリジェンスの魔性に魅入られていった自分を苦い思いを噛みしめながら回想しています。そう、完璧なインテリジェンスなど存在しないのです。それゆえ、情報機関からの情報を冷徹に見分ける資質が国家の安全保障に携わる者には求められます。日本版NSC・国家安全保障会議を創る日本の人々にも、情報には数々の落とし穴が潜んでいることをこの回顧録から読みとってほしいと思います。



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