手嶋龍一

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前編:凋落する「理念の共和国」

◆冷たい戦争の勝者のその後

 永遠に続くかに思われた冷たい戦争が、ベルリンの壁の崩壊をきっかけに突如、幕を下ろして間もない頃のことだった。冷戦に勝利した西側諸国はユーフォリア、うっとりと幸福感に抱かれて夢見心地に見えた。とりわけ冷戦の覇者、アメリカは、唯一の超大国となって、その前途には遮るものなどないと自信を漲らせていた。

 東西冷戦の終焉を受けて、ヨーロッパ中央に出現しつつあった統一ドイツをどう扱うのか。アメリカの戦略家たちの多くは、統一ドイツなど容易に御していけると楽観的だった。そうしたなかで、アメリカ議会は、かつて「対ソ封じ込め戦略」を提唱したジョージ・ケナンを公聴会に招いて、その見解を質したのだった。筆者もその場にいた。

 ケナン翁は齢90歳に近づき、すでに一線は退いていた。だが、ロシア問題の最高権威は、東西ドイツの統一を向こう30年凍結すべきだと訴えて、その深い洞察力は衰えを見せなかった。だが、アメリカの政界、言論界の反応は冷ややかだった。希代の戦略家もすでに老いたり――。そんな声が聞こえてきた。

しかし、いまから振り返ってみると、ケナンの慧眼は冴えわたっていたように思う。東西ドイツが統一を成し遂げ、さらにNATO(北大西洋条約機構)が北方へと拡大していけば、冷戦に敗れて孤立感を深めているロシアをさらに追い詰め、その反動は予期せぬ結果を招くかもしれない。ユーラシア大陸に新たな緊張を創り出してしまうと、今日の情勢を鋭く予見して誤らなかったのである。

◆自由と平等の理念のゆえに尊し

 ジョージ・ケナンは、民主主義の理念を盾にして、冷静に慌てることなく全体主義国家に対峙すべきだと、「対ロ封じ込め戦略」を提唱した。だが「封じ込め戦略」は、次第に軍事的な色彩を帯びていった。その果てに冷戦は幕を下ろした。超大国アメリカは、自由と平等の理念ゆえに冷たい戦争に勝利したのか――。ケナン翁は「否」と断じて憚(はばか)らなかった。

 冷戦に勝った者など誰もいない。冷戦は双方の軍事的緊張を高め、高価な経済的負担を強いて、互いの陣営に社会的、財政的な問題を生じさせてしまったと指摘した。それゆえ、冷戦が終わったいま、アメリカは自らのデモクラシーに磨きをかけて、いまこそ新たな出発をと言いたかったのだと思う。ケナン翁が「アメリカ・ファースト」を唱えるトランプ大統領の誕生の報に接したなら、どれほど驚き、嘆き悲しむことだろう。それはアメリカが、アメリカであることをやめてしまうことを意味しているからだ。

 アメリカの民主主義がソ連の全体主義を打ち負かしたと主張する第41代ブッシュ共和党政権の高官。強大なアメリカの軍事力がソ連の軍事力を圧倒したのだと断じるケナン翁。両者の見解は真っ向から対立した。

 両者とも、アメリカが自由と平等の旗を高らかに掲げる国家であり続けるべきだという点では同じ地平に立っていた。アメリカ合衆国よ、民主主義国家であれ――トランプ大統領がそう考えているか否か定かでない。究極のアウトサイダー政権なのである。たった一通の大統領令によって対メキシコ国境に「万里の長城」をつくりあげる。それは、多民族にして移民の国、アメリカが自由で開かれた国家であることを自ら放棄すると宣言しているに等しい。

 真珠湾攻撃のあと、当時のルーズベルト大統領も一通の大統領令に署名し、日系であるが、れっきとしたアメリカ市民である人々を強制キャンプに送り込み、合衆国憲法で保障された権利を奪い去った。そしてアメリカ民主主義に最大の汚点を残した。こうした愚をトランプ大統領は再びおかそうとしている。

◆貿易赤字の解消にトランプ・カード

 冷戦期、西側同盟の盟主アメリカは、極東の要石たるニッポンを西側陣営にがっちりと組み込んでおく必要があった。そのため、通商面では、アメリカ市場を思い切って開放しながら、日本市場の閉鎖性には目をつぶってきた。だが1960年代の後半に入ると、こうした寛容な姿勢を改め、日本市場の開放を求めるようになっていく。日米貿易摩擦は次第に激しさを増していった。

 トランプ政権はさらに一歩進めて、中国に対する膨大な貿易赤字を改めさせるため、安全保障を交渉のカードに使う構えを見せている。中国は不公正な貿易と為替の操作でアメリカの製造業に大きな打撃を与えつつあると指摘し、「ひとつの中国」政策に必ずしもこだわらない姿勢を打ち出している。米中の劇的接近から35年あまり、「ひとつの中国」政策は東アジアの海を波穏やかに保ってきた。その意義を理解しないまま、無謀な「トランプ・カード」を切りつつある。

 72年に上海で発表された米中の共同コミュニケの台湾条項には「アメリカ政府は台湾海峡の平和解決を望む」と述べて、中国の人民解放軍が台湾海峡を渡って武力侵攻することを言外に牽制した。その一方で、アメリカの支援を前提に台湾の独立派が軽率な行動をとらないように戒めている。文書の行間に微妙なニュアンスを潜ませて、東アジアの波を辛うじて穏やかに保ってきた。

 だが、トランプ大統領は、就任前に台湾の蔡英文総裁と電話で会談したのに続いて、「ひとつの中国」政策にこだわらない意向を示した。これに対して習近平政権は「ひとつの中国」政策こそ中国にとって核心的利益だとただちに反論してみせたが、その物言いはことのほか抑制が効いていた。ひとつ判断を誤れば、米中の武力衝突に発展しかねないことを知っているからなのだ。その思いは台湾側の政策決定者たちも同じだろう。日米安全保障体制は、台湾有事に備えた盟約である。トランプ大統領が弄ぶ愚かなカードによって大きな危機に見舞われるのは日本に他ならない。

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