手嶋龍一

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変わる世界と日本外交の分水嶺

変わりゆく自衛隊の役割

手嶋 平成の幕開けの年でもある一九八九年にベルリンの壁が崩壊し、四五年の永きに亘った冷戦が終結しました。これからは自由と民主主義の時代を謳歌できると、西側先進国は一種のユーフォリア(幸福感)に包まれました。しかし翌年の夏にはサダム・フセインが突然、クウェートに侵攻し冷や水を浴びせます。

五百旗頭 自由民主主義、市場経済が勝ったからといって、それですべてが丸く収まるわけではなかった。冷戦が終わって宴たけなわだったときに、フセインがその虚をつく行動に出たわけです。

手嶋 抵抗できないクウェートから主権と油田を奪い取り、既成事実にしようとした。これに対し、アメリカが中心となって多国籍軍を編成します。湾岸危機は、やがて湾岸戦争へと転化していきました。
その時、日本にあった選択肢は「血を流す」「汗を流す」「金を出す」の三つ。ただ血を流すことは憲法上ありえず、汗を流すことも当時は法的な備えがなく困難でした。

五百旗頭 湾岸危機に対応した海部俊樹首相は戦後平和主義の信奉者で、自衛隊派遣に消極的であり、たとえ海外派遣する場合でも自衛隊とは異なる組織の人員として派遣すべきと考えていました。外務省にも慎重な立場の人がいましたね。

手嶋 結局、日本は一三〇億ドルもの巨額の資金を拠出しました。それにもかかわらず、国際社会からまったく感謝されず、日本は全てをカネで済ますのかと批判されました。
 当時、ワシントン郊外に住んでいた日本人の男の子が小学校のクラスメイトから「正義に反するフセインの武力侵攻を前に日本は何も行動していないじゃないか」と責められ、何も言い返せずに悔し涙を流した。大切にしていたポスターを売って前線の兵士への募金活動をはじめます。彼の父親は、初代のNSC局長(国家安全保障局長)を務める谷内正太郎さんです。まさしく湾岸戦争の「敗戦体験」です。このエピソードが象徴するように冷戦後のニッポンは、初の国際危機に遭遇して為す術がなかったのが哀しき現実でした。

五百旗頭 湾岸戦争での失敗を教訓に、日本は国際平和協力法(PKO法)を整備していきます。このときの首相は宮澤喜一ですが、彼は経済中心主義の信奉者で、自衛隊の海外派遣だけはならぬ、と考えていました。しかし、世界の論調を自身の目で見て、平和目的のPKO(平和維持活動)にすら自衛隊が参加しないようだと、日本の平和主義は立ち行かないと判断したのです。
 その後、一九九二年のカンボジア、二〇〇二年の東ティモールへの派遣では、自衛隊は規律正しく責任感が強いと、海外の司令官や国連から絶賛されました。そのため私が防衛大学校長になった〇六年には、自衛隊内にPKOに否定的な人はほとんどいませんでした。

手嶋 冷戦後の日本外交は、湾岸戦争をめぐる〝外交敗戦〟がその出発点となり、自衛隊は「国土防衛」に加えて、「PKO」を大きな柱の一つに据えていきます。さらに平成に起きた二つの大災害、阪神淡路大震災と東日本大震災が自衛隊の役割を大きく変えることになりました。

五百旗頭 阪神淡路大震災では残念ながら、自衛隊の派遣が遅れてしまいました。ただその後、ライフラインを長期間支えたことで、自衛隊による災害支援活動は国民から評価されるようになります。
 ただ災害支援活動に注力しすぎると、自衛隊の主たる任務である「国防」に支障が出ると考える自衛隊員がいたことも事実です。しかし東日本大震災以降は、自衛隊内においても災害支援に力を尽くすことに反対する声はなくなりました。

手嶋 私は米国防総省の司令室で阪神淡路大震災の発生を知りました。、あの時もし、日本がいち早く米政府に空母の派遣を要請していれば、多くの命を救えたはずと思えてなりません。しかし、自衛隊への出動要請すら遅れたのですから、現実にはありえない選択だったのですが。

五百旗頭 東日本大震災では、そうした反省もあって、菅直人首相がオバマ大統領にあらゆる協力をお願いしたいと伝え、米軍の支援を積極的に受け入れたのです。

手嶋 湾岸戦争と阪神淡路大震災は日本にとって不幸な出来事でしたが、それを教訓に日本の危機対応は様変わりしたわけですね。

五百旗頭 阪神淡路大震災は朝五時四十五分に地震が起きました。災害における人命救助のリミットは七二時間とされますが、四八時間を過ぎると生存確率は著しく低下します。阪神淡路大震災では人命救助で決定的に大事な初動が遅れました。
 東日本大震災ではその大反省のもと、沖縄など国防に重要な一部の部隊を残して、全国の自衛隊が被災地に動員されます。当時の陸幕長が法規違反を覚悟して、自身の権限を越えた独断専行の命令を出したことが迅速な対応につながりました。あの決死の判断がなければ、さらに多くの被害者が出ていたはずです。

手嶋 国防と災害は分けて考えがちですが、有事に際して国家のリーダーが危機にどう向き合うべきかという本質は変わりません。

五百旗頭 国の安全保障は、一人ひとりの国民の命を大切にしてこそ成り立ちます。災害時に一人ひとりの国民の命を守るために必死で働く自衛隊だからこそ、国防の仕事も国民から支持されるのだと私は思っています。国防事態に備えつつも、PKOや災害支援派遣をやるのが平成における自衛隊のあり方になったといえるでしょう。


テロ時代への突入と小泉首相の判断

手嶋 大災害への備えは、平成時代を通じて多くの方々の努力によって整備されてきました。一方、二〇〇一年には、九・一一同時多発テロがアメリカを襲います。これは国家対国家の戦いではない。テロリスト対国家の戦いです。新たな脅威が出現し、テロの時代が幕を開けました。

五百旗頭 一九九三年、PKO国連ソマリア活動において、戦闘で一八名の米兵が殺害されました。かつてのアメリカであれば激高してさらなる武力行使をするところですが、ビル・クリントン大統領はソマリアから撤兵させました。これをもって、アメリカは世界の警察官として振る舞うことはなくなるのではないか、という見方もありました。しかし、私は当時から、世界の秩序の根幹が揺さぶられるような事件が起これば、アメリカは元の姿に必ず戻ると発言してきました。
 九・一一後、ジョージ・W・ブッシュ大統領はテロとの戦いを開始します。テロの首謀者を匿うアフガンのタリバン政権に攻撃を仕掛けるのは想定される当然の対処でした。
 問題は「悪の枢軸」としてイラクにまで攻め込んだことです。なかなか行動しないのが日本の特徴だとすると、勇み足でやり過ぎてしまうところがアメリカの特徴です。ベトナム戦争と同様の過ちを犯すのではないかと危惧していましたが、案の定、イラク戦争も泥沼化していきます。
 戦争の後始末もお粗末でした。フセイン体制を支えた軍人や警察をすべて排除し、結果的にIS(イスラム国)を生み出してしまったのです。アメリカは日本占領時、議論の末に天皇制と官僚機構を残す決断をしました。それが日本統治に成功した最大の要因です。しかしイラクではそのような智恵がうまく働きませんでした。

手嶋 九・一一が起きたとき、私はNHKのワシントン支局長としてホワイトハウスを担当していました。
 ブッシュ大統領は、フロリダにいたのですが、その日のうちに何としてもホワイトハウスに戻ると側近が止めても聞こうとしなかった。我々はローズ・ガーデンで「大統領の最初のひとこと」を聞き出そうと待ち受けていました。ヘレン・トーマス記者が「米本土を攻撃された国の大統領としてどう対応するつもりか」と迫りました。ケネディから歴代政権を担当してきた歴戦のジャーナリストが鋭く一の矢を放ったのですから、ブッシュ大統領も足をとめ、「テロリストとそれを背後で支えるテロ組織やならず者国家を区別しない」と答えたのです。
 これが世にいう「ブッシュ・ドクトリン」なのです。航空機テロの実行犯だけでなく、それを操る「アルカイダ」、テロ組織を抱え込む「ならず者国家」を標的に、無期限にして無制限の対テロ戦争を宣言したのでした。傍にいたライス補佐官は面を冒して大統領に撤回を迫りました。結局、これが「ブッシュの戦争」の行方を決めました。
 二年後には、イラクのサダム・フセイン政権が核・生物・化学兵器を持っていると断じてイラク戦争に突き進んでいきました。この「ブッシュの戦争」にイギリスやスペインは追随しましたが、ドイツとフランスは強く反対しました。さて、日本はどう対応すべきか。同盟の命運を左右する決断を突きつけたのです。

五百旗頭 イギリスと日本はともにアメリカの同盟国ですが、イギリスはアメリカに特別な意識を持っています。当時、イギリス人の学者や政府関係者は、イラク戦争の筋が悪いことは分かっていました。それでもブレア首相は、イギリスもアメリカに同行してそのなかで影響力を発揮する、という姿勢をとりました。この態度はイギリスの対米政策の伝統です。
 ただし、ブレア首相も日本の小泉首相も、イラクを攻撃するなら国連決議を通して国際的な同意のもとで始めてほしいと注文をつけています。そのため一度は国連の決議を通しましたが、フセインがいい加減な態度をとり続けたため、二度目は国連決議を得ずにイラクを攻撃してしまったわけです。イギリスや日本も手放しで支持したわけではなく、一定のブレーキ役は果たしました。

手嶋 しかしながら、武力行使を容認する国連決議がないままイラク戦争に突入していった。小泉首相はいち早くアメリカに「支持」を表明しました。実は、外務省の応答要領は「理解する」でした。小泉首相の決断は、同盟の苛烈さを物語っており、いまなお論争を呼んで平成外交史のハイライトの一つでしょう。

五百旗頭 支持はしたけれど、憲法上、自衛隊を戦闘のために海外に派遣することはできません。そこで航空自衛隊を後方支援に、陸上自衛隊を人道復興支援に送り出しました。ブッシュ大統領も日本にとって、ここまでが限界であることは分かっています。自衛隊の派遣は日米同盟の水準を一気に高めました。
 小泉首相の手腕に脱帽したのが、アメリカが戦っている渦中に、イラクに派遣した陸上自衛隊を早期撤収したことです。その際、ブッシュ大統領は日本に「よくここまで協力してくれた」と感謝を述べるなど、日米関係を損なうこともなかった。引き際は見事なものでした。
 イラク戦争後、ブッシュは国民から批判され、政治不信を生み、のちのトランプ政権誕生につながります。ブレアも政治家として大きな傷を追い、EU離脱の問題にみられるように、イギリスの政治はその後、混迷を極めます。一方で、小泉首相はイラク戦争後もそれほど国民から非難はされずに済みました。

手嶋 小泉首相は、イラク戦争で運命をともにした各国のリーダーのなかで、唯一政治家として生き残りました。小泉首相が国会の論戦で、イラク攻撃を正当化するロジックを条約官僚の有権解釈に逃げなかったことは評価できると思います。

五百旗頭 友達が戦っていて危ないときに、こちらが参加しないなんてことはありえない。日本が行くのは当たり前だ。そんな素朴な言い方をあえてしていました。

手嶋 たしかに素朴なのですが、同盟関係の本質を衝いています。

五百旗頭 テロ対策特別措置法に加えてイラク特別措置法までつくり、自衛隊を派遣したことは非常に大きな決断です。海上自衛隊の特殊能力を活かした給油活動は、世界から大変感謝されました。またイラク戦争自体、危険性はあったものの、幸運なことに隊員はみんな無事に帰還できました。任務を遂行した現場の自衛隊員は、本当によくやったと思います。


日本の外交力で東アジアの平和を

手嶋 平成の日本外交史をひもとくと、湾岸戦争や対テロ戦争といった国際政治上の挑戦、阪神淡路大震災や東日本大震災といった大災害に、事前の備えが十分とは言えないなか苦労して対処してきました。

五百旗頭 評価は分かれますが、時には反省をしながら、時には当時のリーダーが重大な判断を下しながら、日本は国難に対処してきました。

手嶋 愚者は自らの体験に学び、賢者は他人の体験に学ぶといわれます。そういった意味では、事前の備えの重要さを改めて考えさせられます。そこで、動乱の兆しを秘めた東アジア情勢について触れたく思います。
 日米安全保障体制は東アジアの貴重な国際公共財です。日米同盟は、朝鮮半島と台湾海峡という二つの有事に備えたものです。朝鮮半島の情勢に目を奪われがちですが、事が起きてもリージョナル、地域的な紛争にとどまる可能性が高い。朝鮮半島を舞台に米中が戦火を直に交える可能性はありません。いっぽうで台湾海峡はまったく位相が異なります。
 習近平国家主席がこの一月台湾政策について演説し、一国二制度のもとで祖国を統一すると表明した。統一を背後で妨害したり、台湾独立をそそのかしたりする第三国がいれば、武力行使も辞さないと発言した。
 台湾の蔡英文総統は「一国二制度による統一は絶対に反対する」と応じました。低迷していた支持率も回復した。日本はポツダム宣言を受諾した経緯や中国への配慮もあって、台湾海峡危機には国会で議論がされません。ただポスト平成の時代の日本にとっては、台湾海峡の平和を維持することは死活的に大切です。

五百旗頭 中国は台湾問題で絶対に譲歩しないということを念頭に置くべきです。中国のリベラルな知識人と話していても、「我々は戦争をしてでも台湾の独立を止める」と語ります。彼らには覚悟があると肌身で感じます。もちろんその半分建前で、アメリカをけん制している側面もあるでしょう。

手嶋 このたび、中国は国防費として約二〇兆円計上しています。かつてと比べればアメリカとの軍事力の差も縮まっており、台湾海峡エリアだけをみればかなり拮抗してきています。台湾海峡危機は、いますぐ起きる可能性は低いかもしれませんが、備えは不可欠です。

五百旗頭 中国は本来、粘り強くチャンスを待つ外交が得意な国です。もしも日米同盟に亀裂が走ったり、東アジアに介入しないような大統領がアメリカで誕生する瞬間がくれば、台湾海峡付近でのパワーバランスが変動する可能性はあります。

手嶋 台湾海峡危機が顕在化すれば、日本は進退が極まります。米国と行動を共にするも地獄、共同対処を拒むのも地獄です。米海軍と出撃すれば、中国は対日制裁に訴えるでしょう。一方で米海軍との行動を拒めば日米同盟は根底から揺らいでしまう。
 ですから日本の外交力を結集して危機を未然に防ぐべきなのです。

五百旗頭 まさに日本の外交能力が問われます。アメリカと中国のような大国同士の交渉は何かと難しい面があります。第二次大戦後の秩序をつくるとき、米ソ両国だけではなかなかうまくいきませんでした。そこへイギリスが潤滑油のように加わることで、戦後秩序が形づくられていったのです。
 同様に、米中の大国が覇権争いをしているなかで、日本が第三の国として関わり、道理を尽くし、両国の間をとりもつことが大事です。それによって、日本の存在感も高められます。そうして台湾海峡の危機を顕在化させないことが、日本にとっての最大の国益なのです。

手嶋 そうなってくると外交力のある人材を育てることがますます重要です。五百旗頭先生には、ぜひポスト平成の人材を育てる仕事にも尽力願いたいと思います。

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