手嶋龍一

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「香港」にみる問題の本質 凋落する米国の理念

 あれはブナの木々が烈風にしなる冬の日だった。カナダ国境に近い小さな村、ハーツロケーション。全米に先駆けて予備選挙を行うニューハンプシャー州でも、雪に埋もれたこの村は、午前0時を期して40人ほどの村人が一斉に投票する。「全米でいちばん早く大統領を選ぶ村」なのである。投票日を前にした対話集会にはほぼすべての住民が集まってきた。民主党の大統領候補選びで、現職のアル・ゴア副大統領に挑むビル・ブラッドレー元上院議員と議論を交わすためだった。

 「アメリカは豊かさのゆえに偉大なのではない。その豊かさを良きことに振り向けるがゆえに偉大なのだ」

 幾多の財政改革を手がけてきたブラッドレー元議員は、連邦税が死ぬほど嫌いな村人を前に「貧しき人々のためにこそ血税を」と語りかけ、熱い討論は夜が更けても続けられた。ブッシュ対ゴアの歴史的接戦となった2000年選挙での出来事だった。

 「アメリカのデモクラシーの良き伝統とは」と問われれば、真っ先にあの日の光景を挙げたいと思う。清教徒の末裔(まつえい)が暮らすこの大地こそ、精神の独立王国であり、連邦政府の介入は許さない――。アメリカ独立革命の伝統を色濃く受け継ぐ人々が、共和制の裾野を支えている様を目の当たりにして心打たれた。

 香港の「1国2制度」は、中国への返還後も50年間は維持される。1984年の「中英共同声明」こそ、香港に独自な制度を保証した。対中交渉をまとめたのは英国だが、声明には米国の意向がくっきりと投影されていた。「1国2制度」を裏書きしたのは米国であった。

 だが、習近平政権は、香港国家安全法を強引に成立させ、いとも容易(たやす)くこの証文を破り捨てた。言論の自由と法の支配なき「1国2制度」など、中国本土の強権体制と変わらない。自由世界に開かれた香港という「窓」は、治安維持の措置によってぴしゃりと閉じられてしまった。

 米政府は、関税や渡航の優遇措置を取り消すと通告し、上下両院は「香港自治法案」を取りまとめて抗議の意を示した。だが、当のトランプ大統領は違う。わが再選に力を貸してくれるなら、香港やウイグルの問題に口をつぐんでもいい――習近平国家主席にこう持ちかけていたとボルトン前米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)が暴露した。これでは、習近平政権が米国の抗議など歯牙にもかけないのは当然だろう。

 アメリカの影響力はなぜここまで地に墜ちてしまったのか。あの独立革命以来、合衆国が高々と掲げてきた自由の理念が、「トランプのアメリカ」の出現を機に色あせてしまったからだ。

 「分かれたる家は立つこと能(あた)わず。半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国が永続することはかなわない」

 リンカーン大統領はこう訴え、「移民と奴隷から成る国」を真に自由で平等な国家として統合しようと、内戦という血の代償を払ったのだった。だが、トランプ大統領が、この国を再び分断に導きつつあることは独立記念日のスピーチからも明らかだ。「習近平の中国」はこの機を逃さなかった。米国内の黒人差別の実情を取り上げ、超大国の民主主義は二重底だと指摘して攻勢に出ている。そんな人種差別国家に香港の統治をとやかく言われる筋合いはないと言いたいのだろう。

 カナダ国境に近い小さな村で息づく「草の根デモクラシー」の礎の上に築かれてきたアメリカの理念に陰りが生じ、それゆえに米国の影響力は目立って衰えている。アメリカは強きがゆえに偉大なのではない。内に秘めたる力を良きことに使うがゆえに偉大なのだ――ブラッドレーならそう言うに違いない。

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