手嶋龍一

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情報社会の地殻変動

 ホワイトハウスのかなたに望むペンタゴンから炎があがり、黒々とした煙が立ちのぼっている――。あの日の光景は、いまもわが脳裏に棲(す)みついたままだ。ハイジャック機はまずニューヨークの世界貿易センターを崩壊させ、続いて国防総省にも襲いかかった。  「テロの世紀」の幕開けを告げる凶事――。筆者は現場から中継放送を続けていたのだが、果たしてそう見抜いていたのか、おぼつかない。だが、2001年9月11日の同時多発テロこそ、世界の風景を一変させた未曽有の事件だった。

 冷戦期の米国はソ連を主敵と見定め、クレムリンの意向さえ正確に掴(つか)めば国家の破滅は免れると考えていた。だが、9・11事件を機に、国際テロ組織こそ姿を見せない敵と見定めるようになる。安全保障の世界に重大な地殻変動をもたらしたのである。

 新型コロナウイルスは、80万人以上の尊い人命を奪い、社会・経済システムに痛打を浴びせただけではない。いまや世界の安全保障システムを根底から塗り替えつつある。未知のウイルスは、旧ソ連の精鋭部隊や残忍なテロリストに匹敵する脅威となった。9・11事件から20年足らず、われわれが住む世界に新たなパラダイムシフトが起きようとしている。

 新型コロナウイルスは、19年11月に、中国の武漢で発生し、瞬く間に猛威を振るい始めた。だが、強権国家は不都合な真実を隠したがる。当初、中国当局は、自国民に警告も発せず、世界保健機関(WHO)にも迅速に報告をあげなかった。強権下の政権が秘匿する情報は、常の外交ルートでは入手できない。機密の壁を潜り抜け、周到な分析を加えて、国家指導者に伝えるインテリジェンス機関の存在が欠かせない。

 コロナを制する者は、世界を制する。それゆえ、米中の間ではいま、熾烈(しれつ)な情報戦が戦われている。テキサス州の医学研究都市ヒューストンがその主戦場となった。トランプ政権は7月24日、在ヒューストン中国総領事館がコロナ・ワクチンの開発情報を収集する拠点になっていると断じて閉鎖を命じた。同時に中国との関係を申告せずに研究所に勤めていた4人の中国人研究者を追放した。アメリカの防ちょう当局は、国内でバイオ情報を探る中国のスパイ活動を封じる措置に踏み切ったのである。

 アメリカの情報(インテリジェンス)コミュニティーでは、未知のウイルスが引き起こすパンデミックを安全保障上の重大な脅威と受け止め、情報機関の組織、人員、予算を抜本的に見直そうとしている。DIA(米国防省総省国防情報局)の傘下にあったNCMI(米国医療情報センター)を中枢と位置づけ、感染症対策の情報拠点としつつある。未知のパンデミックの襲来に備え、膨大で雑多な「インフォメーション」の海から、危機の到来を告げる「インテリジェンス」を紡ぎだす組織に脱皮させようとしている。

 翻って、いまのニッポンは、感染症の最前線からあがってくるさまざまな情報をえり抜いて分析し、彫琢(ちょうたく)し抜いて、政治のリーダーにあげる情報機関を持っていない。コロナ情報戦の最前線から、はるか後衛に取り残されている。これでは、いつ国境を封鎖し、重症患者の病棟をどれほど確保し、どのワクチンの治験を優先させるのか、国家のかじをぴたりと定めることがかなわない。「インテリジェンス」とは単なるスパイ情報などではない。国家が生き残り、人々の命を守るよりどころなのである。

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