手嶋龍一

手嶋龍一

手嶋龍一オフィシャルサイト HOME » 手嶋流「書物のススメ」 » 書評

手嶋流「書物のススメ」

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
マックス・ウェーバー著 中山元訳

経済システムの中の人間考察

書評  読書の世界にいま革命が起きている。電子図書のことではない。翻訳の質が確かな足取りで進化しつつある。読者はその恩恵に浴しているのだが、日本の翻訳文化をめぐる変貌に気づいているひとは意外なほど少ない。

 幕末から明治維新期の日本は、翻訳を通じて欧米の文化をどん欲に吸収しつづけた。これによって文明開化を推し進め、列強の植民地になることをかろうじて免れたのだった。欧米の思想や科学は受容したが、教科書は日本語で編纂し、独立国の誇りを守り抜いたのである。

 だが明治期の日本語は、複雑な社会事象を叙述出来る近代的な文体をいまだ完成させていなかった。そんなハンディキャップを抱えながら、外国語の文献を日本語に移し替える作業はさぞかし苦労が多かったろう。わけても複雑な構文と長いセンテンスをもつドイツ語の翻訳には難渋した。その結果、晦渋な訳文が量産され、それを理解できずに絶望し自ら命を絶った旧制高校性までいたという。だが、翻訳者たちは訳文の至らなさをアカデミズムの権威で覆い隠していたのである。「大げさな」と疑うひとは、古書店で当時のドイツ哲学書やマルクス主義の文献を手にとってみるといい。昨今の自動翻訳機にも劣る代物であることに気づくはずだ。そんな翻訳書を誇らしげに手にして哲学青年を気取っていた当時の若者が現実の世界ではいかに無力だったことか。昭和軍閥に抗う術もなく時世に呑みこまれていった。

 現代の出版人は苦い教訓をどこかで汲み取っているのだろう。瑞々しい日本語の文体で古典的名著が近年次々と翻訳されつつある。なかでも日経BP社の編集陣は、出版不況のさなか、名著の新訳に意欲的に取り組んでいる。若い世代が新訳を待ち望んでいた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がその代表例だろう。中山元の訳文は、期待に違わず明晰にして、論理の筋がすっきりと通っている。

 マックス・ウェーバーの名著は、二十世紀の幕開けと共に公刊され、すぐさま論争を巻き起こした。利益を追い求める商人たちの営みが、やがて西欧の新しい資本主義を生み出していった―。こんな世の常識に大胆に挑んで、斬新な視点を提示したからだ。営利の追求を敵視していたピューリタニズム、とりわけカルビニズムの経済倫理こそが、欧米の近代資本主義を育んだと喝破した。プロテスタンティズムの倫理は、現世の仕事こそ人々の天職だと諭し、真摯な労働を通じて財産を獲ることを是認しただけではない。利潤を追い求めることは、神の意志に添うものだと断じて古い倫理から人々を解き放って近代資本主義の誕生を促した。

 「利益の追求が合法的なものとされただけでなく、すでに述べてきたような意味で直接に神が望まれるものと見なしたために、利益の追求を禁じていた『枷』(かせ)が破壊されたのである」

 この論争的な書物の出版から一世紀を経て、いま我々は中国やインドといった経済大国の出現を目の当たりにしている。ウェーバーの著作が新興勢力の台頭の秘密を解き明かすためお手軽に役立つわけではない。だが一党独裁制やカースト制を残す国々の経済的躍進の背後に何が潜んでいるのか、それを探る思考を鍛えるには格好の書だろう。同時に戦後の日本経済を突き動かしていた活力が喪われている現状を考える一助にもなるはずだ。ウェーバーが考察の主題としたのは、経済システムのなかの人間のありようだったからだ。清新な翻訳は現代社会が抱える課題に光をあて、近未来を射抜く力を内に秘めている。

2010年5月9日付 熊本日日新聞掲載

閉じる

ページの先頭に戻る