手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

『消えたヤルタ密約緊急電~小野寺信の孤独な戦い~』

 北海道の天塩山系で猟師に従って鬱蒼とした針葉樹林帯に分け入ったことがある。この山麓のどこかにヒグマはきっと潜んでいると手練れの猟師は自信ありげだった。
「果たしてヤマ親爺を仕留められるか。あとは俺の腕と運次第だよ」
機密の公電を追ってインテリジェンスの森にひとり分け入る本書の著者は練達のハンターを彷彿とさせる。英国公文書館は第二次大戦の情報文書の機密指定を次々に解いている。だからといって獲物がすぐに見つかるわけではない。鍛え抜かれた情報のプロフェッショナルだけが標的を射止めることができる。
 大戦中に欧州の地から打電された枢軸国日本の公電は連合国側にとってダイヤモンドの輝きを放っていた。ベルリン発の大島浩大使電はヒトラーの胸中を窺う決定打であり、中立国スウェーデンの首都ストックホルムから打たれた小野寺信(まこと)駐在武官の機密電も国家の命運を左右するものだった。英国の諜報当局は渾身の力を注いで、暗号が施された小野寺電を読み解いていった。

 ソ連はドイツ降伏の後、三ヶ月をめどに対日参戦する――。小野寺信は亡命ポーランド政府のユダヤ系情報網から、ヤルタ会談の密約を入手した。それは杉原千畝が亡命ユダヤ難民に与えた「命のビザ」への見返りだった。東京の参謀本部に打電したのだった。だがヤルタ密約電を受け取りながら、あろうことか参謀本部の中枢部は抹殺してしまったと著者は断じている。和平工作をソ連に委ねていた彼らにとって「ヤルタの密約」こそ日本の敗北を決定づける不吉な宣告に他ならなかったからだ。
 小野寺信はスェーデン王室を頼りに終戦工作も進めていた。日本は天皇制の存続さえ保証されれば降伏する――ポツダム会談に臨むトルーマン大統領に伝えられた情報の背後にはスウェーデン国王グスタフ五世の影が動いていた。さらに全体主義国家ソ連は新たな領土への野心を隠していないと警告し、ソ連を頼むことの愚を説き続けた。だが大本営の参謀たちは、貴重なインテリジェンスのことごとくを無視し、スターリンの外交的詐術に思うさま操られていった。ヤルタ密約をめぐる小野寺情報を日本の政府部内で共有していれば、広島、長崎への原爆投下を回避でき、ソ連の対日参戦を防ぐことができていたものを――。本書の行間には著者の無念が滲んでいる。

 貴重な情報が決断を委ねられた指導者に届かない。インテリジェンス・サイクルの機能不全は国家を災厄に突き落とす。フクシマ原発の悲劇を目撃した読者なら、ヤルタ密約を抹殺して愧(は)じない官僚主義の奢りがいまのニッポンにも受け継がれていると嘆息することだろう。

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