手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「パナマ文書」
(バスティアン・オーバーマイヤー, フレデリック・オーバーマイヤー
 訳 姫田 多佳子 KADOKAWA)

「迷路の果てに広がる壮大にして醜悪な光景」

書評  ハロー。ジョン・ドゥだ。
 データに興味があるか?共有してもいい。

 硬派の調査報道で高い評価を得てきた南ドイツ新聞のバスチアン・オーバーマイヤー記者に短いメールが舞い込んだ。「興味あり」と打ち返すと、情報源を秘匿する取り決めを交わしたいと返信があった。

 私の身元が明らかになれば、私の命は危険にさらされる。

 素性を明かせないため、「ジョン・ドゥ」を名乗る情報提供者。君はいったい誰なんだと記者が問いかけてみた。

 誰でもない。憂慮している一国民だ。

 情報の受け渡しは暗号化された通信で行い、直接会ったりしない。そのかわり膨大なデータから何を選んで記事にするかは記者に任せるという。
 やがてPDF化されたサンプル情報が五月雨式に送られてきた。パナマに本拠を置き、租税回避を望む顧客とタックスヘブンをつなぐ有力法律事務所モサック=フォンセカの内部文書だった。カリブ海やスイスの銀行を舞台にした巨額脱税事件を手がけてきたオーバーマイヤー記者はとっさに底知れないダイヤモンド鉱脈だと直感した。
 「およそジャーナリストと名のつく人間が眼にしたどんなリークのデータより大きかった」
 モサック=フォンセカが扱っている顧客は、各国の最高首脳とその代理人、独裁者、マフィアの親分、さらには有名スポーツ選手に及んでいる。ジョン・ドゥが内部から引き出したデータは、二・六テラバイト。文書にして一一五〇万通、メールでは四八〇万通に達する膨大な量だった。これほどの情報を一新聞社が抱え込み、裏付け調査を行って記事にすることなど不可能だ。国境を越えて各国のジャーナリストと手を組まなければ――オーバーマイヤー記者はこう決断してワシントンD.C.に飛び、ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)と連携することにした。八〇カ国を超える四〇〇人余りのジャーナリストが史上最大の漏洩事件を手がけることになった。共同戦線には、ガーディアン、ルモンド、BBCなど錚々たるメディアが名を連ねている。
 「パナマ文書」として知られるようになったデータには、新興の経済大国、中国を率い、腐敗追放を国是に掲げる習近平国家主席の義理の兄弟の名があった。バージン諸島に複数のペーパー・カンパニーを所有していた。「天安門事件の虐殺者」と呼ばれ、浪費の限りを尽くす李鵬首相の娘も名もあった。

 非常時のプランを作っておこうと考えている。急に旅に出なければならなくたったら・・・。避けた方がいい場所はあるか?

 「要人の極秘情報が含まれているので中国はやめたほうがいい」と記者は助言している。ジョン・ドゥは大量のデータは引き出したものの、内容のすべてを把握しているわけではないことが窺えて興味深い。
 データには「ウクライナのチョコレート王」の異名をとる富豪ポロシェンコ大統領の名も、その仇敵、ロシアのプーチン大統領の親友も登場する。チェロ奏者として名高いロシア大統領の盟友が名義上では立ちくらみがするほどの巨額の報酬を得ていたのである。だがこれらは氷山の一角にすぎない。武器、麻薬、血塗られたダイヤモンドの取引にこのブラックホールが使われ、巨万の富を隠す温床になっている。
 パナマ文書をめぐっては夥しい数の著作が書き継がれていくだろう。だが、世紀のリークの現場に立ち会った当人が書いたノンフィクションは際立って面白い。当事者が迷路の果てに広がる壮大にして醜悪な光景に読者を誘ってくれるのだから。

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