手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

『帝国の参謀 アンドリュー・マーシャルと米国の軍事戦略』
 アンドリュー・クレピネヴィッチ、 バリー・ワッツ著 日経BP社

 『帝国の参謀』米核戦略家の知られざる素顔

書評「71年前、明るく、雲ひとつない、澄みわたったあの日の朝、死が空から降り注ぎ、世界は一変しました。閃光と炎が街を破壊し、人類は自らを滅ぼす手段を手にしてしまったのです」

 オバマ米大統領は、プロメテウスの火をつかみとった人類が引き起こした惨劇の跡に立ち、自らの肩にのしかかる責務の重さをかみしめているように見えた。筆者は爆心地を望む中継現場で被爆者たちとヒロシマ・スピーチに耳を傾けていた。「原爆を投下したパイロットを許した」と演説で紹介された被爆者二世の女性は、その瞬間、雷鳴に打たれたように肩を震わせた。

 大統領の傍らに「核のボタン」を携えた軍事補佐官が静かに控えていた。冷戦が幕を下ろして四半世紀、超大国はなお核戦争への備えを解こうとしていない。アメリカの核戦略を司ってきた戦略たちのなかでもアンドリュー・マーシャルこそ、世界の現実に真摯に向き合った点で、ひときわ優れた存在だ。『帝国の参謀』はその知られざる素顔を描いた書なのである。

 アメリカが核兵器を独り占めできたのは、日本への原爆投下からわずか4年の間にすぎない。冷戦の主敵となったソ連が原爆実験に成功するや、アメリカ軍の首脳たちは「殺られる前に殺れ」と先制攻撃の誘惑に駆られ始める。核の刃のいかにして使うべきか―。究極の命題に挑むべく創られたのが「ランド研究所」だった。

 アメリカ空軍の頭脳となったこの研究所には、あらゆる分野から綺羅星のような逸材が集められた。自らも研究所の一員だったヘンリー・キッシンジャーが「冷戦期に生み出された真に独創的な」と讃えた核抑止戦略の生みの親アルバート・ウェルステッター。彼の妻で真珠湾攻撃はなぜ成功したかをインテリジェンスの視点から解き明かしたロベルト・ウォルステッター。「水爆戦争論」を提唱し、キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』のモデルとなったハーマン・カーン。絢爛にして豪華な人材のなかにあって、本書の主人公マーシャルは目立たない存在だった。だがいま振り返ってみると、彼こそ飛びぬけた影響力をもった戦略家だったことを誰もが認めるだろう。核の時代に生きる超大国アメリカの戦略課題に真っ向から挑み、独自の方法で解を見出していったのがマーシャルだった。

 稀代の戦略家は、ランド研究所からホワイトハウスの国家安全保障会議に招かれ、1973年には国防総省に移って初代のネット・アセスメント室長に就任する。西側陣営と対峙する東側陣営はいかなる社会・経済基盤の上に軍備を築き上げているのか。そして結局のところ、どちらが強いのか。彼我の真正の強さを精緻に判定する「ネット・アセスメント(総合戦略評価)」の手法こそマーシャルの独創だった。

 国防総省詰めの特派員だった折、ペンタゴンの奥の院でマーシャル部屋の所在を突き止めた感銘をいまも鮮やかに覚えている。「ペンタゴンのヨーダ」と呼ばれた人は、少数の精鋭を率いて、ここに息をひそめるように棲んでいた。そして選挙で大統領が替わろうと、イラク戦争が起きようと、この部屋に引きこもって明日の戦略をひたすら構想し続けていた。
 マーシャルは歴代の大統領や国防長官を支えて、2015年まで務め上げた。時に93歳だった。生涯現役とはまさしくこの老戦略家のためにある言葉だ。だが本書は老戦略家の功績を讃えた「昨日の伝記」ではない。新興の大国、中国が海洋に競り出てくる21世紀半ばの戦略状況を誰よりも早く予測し、それに備える術を論じた、すぐれて今日的な評伝なのである。

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