手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「平成の名著 私のベスト3」(文藝春秋)

 筆を擱いて自らの生を絶つ――こう思い定めて綴られた書が『他策ナカリシヲ信ゼント欲ス』。著者の若泉敬は英訳版の校了を見届け、毒杯を呷っている。敢えて国家の機密を公にした責任を取ったのだろう。

 沖縄を取り戻すため佐藤総理の密使となった若泉は、ニクソン大統領の右腕キッシンジャーと密約をまとめあげた。六九年の「日米共同声明」は、核抜きの返還を謳いながら、同時に米国の核政策を損なわずと念を押している。行間には有事の核持ち込みが滲んでいたのである。ニクソン政権は若泉との極秘交渉を通じて、有事には沖縄に核を再び持ち込むことを文書で認めよと迫ってきた。辣腕の交渉者キッシンジャーは、この密約をテコに繊維製品の自主規制にも佐藤政権を追い込んでいった。「縄と糸の取引」である。

 畢生の大著『外交』でキッシンジャーは、国家理性を体現したリシュリュー卿をして「国家的な問題においては、力を持つ者がしばしば正しい」と言わしめている。国際政局にあって力なき者は他人に後ろ指をさされないよう振舞うがいいと身も蓋もない。国家の針路を自由に選びたければ、大国の庇護から離れればいい。若泉との折衝でもこうした外交哲学を貫いている。大国アメリカに挑んで敗れ、戦後は太平洋同盟に身を寄せたニッポンへの苛烈な宣託だった。稀代の外政家は、対ソ核交渉を有利に運ぼうと北京を存分に惹きつけて米中接近を図っている。

 文革の嵐を乗り切った中国は、韜光養晦を旨として国力を蓄え、いまや超大国の覇権に挑みつつある。高村薫は『李歐』という物語を借りて「中国の世紀」への胎動を雄渾な筆致で描きあげた。日中二人の若者が大阪の町工場で雷鳴のように出遭って友情を育み、十数年の歳月を経て、嫩江の畔に百万ヘクタールの千年王国を築きあげる。君は大陸の覇者となれ――。『李歐』は日本という軛を軽々と乗り超え、平成という時代を彼方に押しやり、東アジアの心臓を鷲掴みにして鮮烈な光を放っている。

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