手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

「今月買った本」 最高の大統領と恐怖の男

 東アジアを舞台にした「二十一世紀のグレート・ゲーム」が幕を開けようとしている。壮大なスケールで繰り広げられる列強の覇権争い。そこでは、小手先の交渉テクニックなど通用しない。大戦略(グランドストラテジー)なくして戦い抜けない。冷戦の時代を通じて、米・英・ソといった大国は、それぞれに独自の戦略スタイルを磨いてきた。だが、戦後の日本は戦略的思考とは無縁だった。超大国アメリカの傘にひっそりと身を寄せ、事足れり
としていたからだろう。

 だが、米中衝突の様相が濃くなったいま、「海洋強国」中国からの烈風は強まり、「トランプのアメリカ」は自国第一主義に走って同盟を危機にさらしている。現在の日本ほど真の戦略を必要としている国はない。

 冷戦史の泰斗が著した『大戦略論』は日本でこそ読まれるべき書だろう。孫子、マキャヴェリ、クラウゼヴィッツらの戦略思想を縦軸に、世界の行方を決めた重要な戦争を横軸に配して、大戦略の要諦を論じている。イェール大学や海軍大学校で未来の指揮官たちを前に語った講義をまとめた本だけに、ギャディス教授の語り口は明快で澱むところがない。

 白眉は南北戦争のリンカーンを扱った「最も偉大な大統領」だろう。合衆国を真っ二つに切り裂く内戦に遭遇したリンカーンは、奴隷制で穢された祖国の魂を救いたいと心から願っていた。だが、魂の救済は預言者の仕事であり、国家を率いる者の責務ではないと自らに言い聞かせた。別れたる家は立つこと能わず――国家の分裂を阻むことを大戦略の最上位に置いて誤らなかった。それゆえ、奴隷制を容認しながら北軍に属する四州を繋ぎとめることを眼目に、軽々に奴隷解放を口にしようとしなかった。多くの黒人奴隷を解き放つのは、彼らを兵隊として北軍に迎え入れ、南軍を撃破するためだと四州に説き続けた。政治指導者にとって大戦略とは何かが比類なき簡潔さで示されている。

 ギャディス教授が描く「最高の大統領」とボブ・ウッドワード記者がスケッチする『恐怖の男』トランプ。そもそも二人を並べるなどリンカーンに非礼にあたることを承知で言えば、ドナルド・トランプには戦略のかけらもない。貿易赤字こそ「絶対悪」と信じ込み、自国の防衛をアメリカの納税者に押しつけているとNATO諸国や韓国を罵り、同盟に嫌悪の情を隠さない。安全保障や経済のプロたちが、米国が指導的な地位を守るために貿易赤字や同盟政策には深い理由があることを説いても、「そんなことは聞きたくない」と耳を貸さない。そして日に四、五時間もテレビにかじりつき、メディアを呪い、怒りをツイッターにぶちまける。戦略眼を養う修練を積んでいない者を超大国のリーダーに選ぶことが、国際社会をどのようにして恐慌に陥れてしまうことか。現代アメリカの指導者の素顔から目を背けるべきではないだろう。

 だが、読後の後味が悪すぎると感じる方々にお薦めの情報ミステリー小説がある。第四十二代大統領、ビル・クリントンが筆を執った『大統領失踪』がそれだ。アメリカの息の根を止めるサイバーテロから祖国を救うため、ダンカン大統領はホワイトハウスから姿を消す。議会指導者は、テロリストと直に交渉して国家の安全保障を危険にさらす大統領の弾劾に動く。見えない敵に独力で立ち向かい、政権の最上層部に潜む「裏切り者」をあぶりだす物語はスリリングだ。理由は全く異なるが、現実に弾劾に追い込まれそうになった本人が書いているのだから、細部までリアリティに富んでいる。

 国家のためにわが身を顧みず献身する姿は清々しい。こんな大統領がいたらどれほど素晴らしいだろう。異形のトランプを打ち負かす有力な対抗馬が見当たらない苛立ちのためか、本書は米国内で百万部超えの支持を集めている。できるならダンカン大統領、それが無理なら悔い改めたビル・クリントンに出馬してもらいたいと思ってしまう出来栄えだ。

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