手嶋龍一

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手嶋流「書物のススメ」

想定不能の危機に備える

 われわれは「習近平の中国」にどう向き合えばいいのか。二十一世紀の国際社会に突き付けられた難問である。「メルケルのドイツ」は、ウィグルへの人権抑圧を非難しながら、巨大な利益をこの国から引き出そうとしてきた。だが、共産党政権が結党百年を機に「中華民族の偉大な復興」を唱え、中国主導の生産システムに欧州各国を組み込もうとするに及んで、安易な政経分離など通用しないと覚ったはずだ。

 柯隆の『「ネオ・チャイナリスク」研究』は、中国の素顔を遠近両方から精緻に描ききっている。国内にあっては、非効率に膨らんだ国営企業が党の特権階級を抱え込み、それゆえ不満を募らせる庶民をIT網によって監視し、厳しい言論統制を敷かざるをえない。外に対しては、「一帯一路」構想を掲げて大中華圏を目指し、海洋強国を呼号して周辺海域を自国領に取り込むべく窺っている。

 柯隆はこうした中国のありようこそ「ネオ・チャイナリスク」として、かつて外国企業が当局の日替わりの政策変更で蒙った被害と峻別する。それは桁違いのリスクなのだ。

 南京で育ち、日本に留学して気鋭のエコノミストとなった柯隆は、新興大国の思考の隅々に分け入り、その社会・経済システムが冒されている病弊の深さをひとつひとつ摘出し、真実に迫ろうとしている。鄧小平は、改革開放に舵を切るにあたって「韜光養晦」を唱えたが、「自分に実力がついたら豹変し、相手に致命的な一撃を与えることも辞さず」と読むべきではないかと柯隆はいう。それを裏書きするように習近平政権は、「一国二制度」の旗のもと台湾を統合する構えを見せ、米中関係は緊迫の度を加えている。これに対抗して日・米・欧は対中包囲網を敷くが、北京発のリスクの本質を果たしてどこまで真摯に受け止めているのか。

 強権体制は不都合な真実を隠したがる――武漢発の新型コロナウイルスは、「ネオ・チャイナリスク」の脅威を国際社会に思い知らせた。『スピルオーバー』は、動物からヒトに伝播するエイズなど幾多のウイルス病を扱っており、その中には中国由来の病気も多い。日本語版を編むにあたって新型コロナを補章として付け加えているが、我々の社会・経済システムに痛打を浴びせた新型コロナウイルスも数ある新興感染症のひとつにすぎない。それこそが本書の言わんとするところだ。

 コロナ系統の感染症だけに眼を奪われ、日本では感染の対策に危険な選択と集中が行われつつある。

 想定すらできない危機にこそ備えておけ――これこそ危機管理の要諦なのだが、我々は新型コロナ感染症だけに貴重な資金を注ぎ込もうとしている。だが次に人類に牙を剥く人獣共通ウイルスはコロナ由来だという保証などない。いまこそ幅広く未知のウイルスに備えておけ。著者のクアメンはそう警告している。

 ニッポンは世界に冠たる医療先進国だが、ワクチンの開発と接種に遅れをとったまま、東京オリンピックを迎えてしまった。そんなさなか、新たに文庫として編まれたのが『オリンピア1936 ナチスの森で』。沢木耕太郎は、ドキュメンタリー映画『オリンピア』の監督として、異形の大会を記録したレニ・リーフェンシュタールにインタビューを試みている。ドキュメンタリーとは実際に起こった事象だけを採録するものと言い張るレニだが、実際にはリメイクした映像が含まれていたと沢木が迫るシーンは息を呑むほどの緊迫感が伝わってくる。ベルリン大会のハイライト、棒高跳びとマラソンには再現フィルムが混在していると日本選手の証言を引いてレニに認めさせる。それは「ナチスの森」の祭典と二重写しになって読者の心を打つ。

 東京大会の直前に書かれた本書の「あとがきⅢ」で沢木は「あくまで『大義』のない大会として黙ってやり過ごせばいいのか。あるいは、惨めで哀れな大会だからこそ、最後まですべてを見届けてあげるべきなのか」と静かに問いかけている。

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